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- 初代 片岡市蔵(しょだい かたおか いちぞう、寛政4年〈1792年〉 - 文久2年7月22日〈1862年8月17日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。俳名は我丈・我升、屋号は竹田屋・天満屋・松島屋。 敵役のの三男。はじめ藤川鐘三郎と名乗って父のもとで修行し、後に鐘彌と名を改める。文化7年(1810年)、七代目片岡仁左衛門の門下となり、名も片岡市蔵と改め大坂の宮地芝居やの舞台に出る。その後も大坂を中心に京都、名古屋、伊勢、江戸にも出向き舞台を勤めた。父鐘九郎の芸を受け継いで実悪の役を演じ、「実悪の親玉」といわれたが、安政のころになると眼病を患い舞台を休みがちとなり、文久2年5月、高齢という事もあり角の芝居に出たのを最後に舞台から引退した。大柄で実悪を本領としたが世話物やも得意であった。門人に二代目片岡市蔵がいる。 (ja)
- 初代 片岡市蔵(しょだい かたおか いちぞう、寛政4年〈1792年〉 - 文久2年7月22日〈1862年8月17日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。俳名は我丈・我升、屋号は竹田屋・天満屋・松島屋。 敵役のの三男。はじめ藤川鐘三郎と名乗って父のもとで修行し、後に鐘彌と名を改める。文化7年(1810年)、七代目片岡仁左衛門の門下となり、名も片岡市蔵と改め大坂の宮地芝居やの舞台に出る。その後も大坂を中心に京都、名古屋、伊勢、江戸にも出向き舞台を勤めた。父鐘九郎の芸を受け継いで実悪の役を演じ、「実悪の親玉」といわれたが、安政のころになると眼病を患い舞台を休みがちとなり、文久2年5月、高齢という事もあり角の芝居に出たのを最後に舞台から引退した。大柄で実悪を本領としたが世話物やも得意であった。門人に二代目片岡市蔵がいる。 (ja)
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- 初代 片岡市蔵(しょだい かたおか いちぞう、寛政4年〈1792年〉 - 文久2年7月22日〈1862年8月17日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。俳名は我丈・我升、屋号は竹田屋・天満屋・松島屋。 敵役のの三男。はじめ藤川鐘三郎と名乗って父のもとで修行し、後に鐘彌と名を改める。文化7年(1810年)、七代目片岡仁左衛門の門下となり、名も片岡市蔵と改め大坂の宮地芝居やの舞台に出る。その後も大坂を中心に京都、名古屋、伊勢、江戸にも出向き舞台を勤めた。父鐘九郎の芸を受け継いで実悪の役を演じ、「実悪の親玉」といわれたが、安政のころになると眼病を患い舞台を休みがちとなり、文久2年5月、高齢という事もあり角の芝居に出たのを最後に舞台から引退した。大柄で実悪を本領としたが世話物やも得意であった。門人に二代目片岡市蔵がいる。 (ja)
- 初代 片岡市蔵(しょだい かたおか いちぞう、寛政4年〈1792年〉 - 文久2年7月22日〈1862年8月17日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。俳名は我丈・我升、屋号は竹田屋・天満屋・松島屋。 敵役のの三男。はじめ藤川鐘三郎と名乗って父のもとで修行し、後に鐘彌と名を改める。文化7年(1810年)、七代目片岡仁左衛門の門下となり、名も片岡市蔵と改め大坂の宮地芝居やの舞台に出る。その後も大坂を中心に京都、名古屋、伊勢、江戸にも出向き舞台を勤めた。父鐘九郎の芸を受け継いで実悪の役を演じ、「実悪の親玉」といわれたが、安政のころになると眼病を患い舞台を休みがちとなり、文久2年5月、高齢という事もあり角の芝居に出たのを最後に舞台から引退した。大柄で実悪を本領としたが世話物やも得意であった。門人に二代目片岡市蔵がいる。 (ja)
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- 片岡市蔵 (初代) (ja)
- 片岡市蔵 (初代) (ja)
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