熊谷 堅直(くまがい かたなお、永享2年(1430年) - 文明10年(1478年))は室町時代後期の安芸武田氏の家臣。父は熊谷信直。子に熊谷宗直、直次、助三郎、直綱。通称は二郎三郎、二郎左衛門、法名電景。官途は美濃守。 1438年に9歳で家督を継いだ。しかし、一時期だけ、父・信直の命で姉の「こら」に家督を譲っている。 ゆづりわたす しょうりょう等の事 あき国三入しんしゃう分之内 みとりみの上らのあと右件所領は信直先祖より さうてんの地なり しかるを 息女こらに 一期の間ゆつり あたふる所なり 御公事等は下地のふんきんによて つとめらるへく候 仍為後 ゆつり状如件永享十年 八月十五日  信直(熊谷家文書第242号) 安芸武田氏に従い、大内氏との戦いに明け暮れた。1461年の9月には武田信賢より、河内国への出陣を要請されている。1465年8月の安芸国国府の戦いでは、息子の宗直を引き連れて参戦している。この戦いで大内方はが討死している。 1478年に伊勢ヶ坪城で死去。

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  • 熊谷 堅直(くまがい かたなお、永享2年(1430年) - 文明10年(1478年))は室町時代後期の安芸武田氏の家臣。父は熊谷信直。子に熊谷宗直、直次、助三郎、直綱。通称は二郎三郎、二郎左衛門、法名電景。官途は美濃守。 1438年に9歳で家督を継いだ。しかし、一時期だけ、父・信直の命で姉の「こら」に家督を譲っている。 ゆづりわたす しょうりょう等の事 あき国三入しんしゃう分之内 みとりみの上らのあと右件所領は信直先祖より さうてんの地なり しかるを 息女こらに 一期の間ゆつり あたふる所なり 御公事等は下地のふんきんによて つとめらるへく候 仍為後 ゆつり状如件永享十年 八月十五日  信直(熊谷家文書第242号) 安芸武田氏に従い、大内氏との戦いに明け暮れた。1461年の9月には武田信賢より、河内国への出陣を要請されている。1465年8月の安芸国国府の戦いでは、息子の宗直を引き連れて参戦している。この戦いで大内方はが討死している。 1478年に伊勢ヶ坪城で死去。 (ja)
  • 熊谷 堅直(くまがい かたなお、永享2年(1430年) - 文明10年(1478年))は室町時代後期の安芸武田氏の家臣。父は熊谷信直。子に熊谷宗直、直次、助三郎、直綱。通称は二郎三郎、二郎左衛門、法名電景。官途は美濃守。 1438年に9歳で家督を継いだ。しかし、一時期だけ、父・信直の命で姉の「こら」に家督を譲っている。 ゆづりわたす しょうりょう等の事 あき国三入しんしゃう分之内 みとりみの上らのあと右件所領は信直先祖より さうてんの地なり しかるを 息女こらに 一期の間ゆつり あたふる所なり 御公事等は下地のふんきんによて つとめらるへく候 仍為後 ゆつり状如件永享十年 八月十五日  信直(熊谷家文書第242号) 安芸武田氏に従い、大内氏との戦いに明け暮れた。1461年の9月には武田信賢より、河内国への出陣を要請されている。1465年8月の安芸国国府の戦いでは、息子の宗直を引き連れて参戦している。この戦いで大内方はが討死している。 1478年に伊勢ヶ坪城で死去。 (ja)
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  • 熊谷 堅直(くまがい かたなお、永享2年(1430年) - 文明10年(1478年))は室町時代後期の安芸武田氏の家臣。父は熊谷信直。子に熊谷宗直、直次、助三郎、直綱。通称は二郎三郎、二郎左衛門、法名電景。官途は美濃守。 1438年に9歳で家督を継いだ。しかし、一時期だけ、父・信直の命で姉の「こら」に家督を譲っている。 ゆづりわたす しょうりょう等の事 あき国三入しんしゃう分之内 みとりみの上らのあと右件所領は信直先祖より さうてんの地なり しかるを 息女こらに 一期の間ゆつり あたふる所なり 御公事等は下地のふんきんによて つとめらるへく候 仍為後 ゆつり状如件永享十年 八月十五日  信直(熊谷家文書第242号) 安芸武田氏に従い、大内氏との戦いに明け暮れた。1461年の9月には武田信賢より、河内国への出陣を要請されている。1465年8月の安芸国国府の戦いでは、息子の宗直を引き連れて参戦している。この戦いで大内方はが討死している。 1478年に伊勢ヶ坪城で死去。 (ja)
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  • 熊谷堅直 (ja)
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