応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の2大有力守護大名の対立を生み、幕府を東西2つに分ける大乱となって、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となった。 明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。 11年に亘る戦乱は、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」と称されることもある。