水野 忠韶(みずの ただてる、宝暦11年11月2日(1761年11月27日) - 文政11年5月26日(1828年7月7日))は、安房北条藩の第3代藩主、のち上総鶴牧藩の初代藩主。忠位系水野家4代。 北条藩第2代藩主・水野忠見の長男。正室は大岡忠喜の娘、継室は溝口直養の娘。子は娘(水野忠篤正室)。官位は従五位下、壱岐守。 忠見は兄・忠寛の遺児である忠廉を養嗣子にしていたが、忠廉は早世したため、安永4年(1775年)の忠見の死去により、忠韶が跡を継ぐこととなった。安永8年(1779年)12月に叙任する。 天明4年(1784年)3月に大番頭となり、天明7年(1787年)3月に奏者番となる。文化5年(1808年)11月には若年寄となった。文政10年(1827年)8月19日、上総鶴牧に移封となる。 文政11年(1828年)5月26日(5月27日とも)に死去した。はじめ娘婿の忠篤を養嗣子としていたが早世したため、代わって養嗣子とした忠実が跡を継いだ。

Property Value
dbo:abstract
  • 水野 忠韶(みずの ただてる、宝暦11年11月2日(1761年11月27日) - 文政11年5月26日(1828年7月7日))は、安房北条藩の第3代藩主、のち上総鶴牧藩の初代藩主。忠位系水野家4代。 北条藩第2代藩主・水野忠見の長男。正室は大岡忠喜の娘、継室は溝口直養の娘。子は娘(水野忠篤正室)。官位は従五位下、壱岐守。 忠見は兄・忠寛の遺児である忠廉を養嗣子にしていたが、忠廉は早世したため、安永4年(1775年)の忠見の死去により、忠韶が跡を継ぐこととなった。安永8年(1779年)12月に叙任する。 天明4年(1784年)3月に大番頭となり、天明7年(1787年)3月に奏者番となる。文化5年(1808年)11月には若年寄となった。文政10年(1827年)8月19日、上総鶴牧に移封となる。 文政11年(1828年)5月26日(5月27日とも)に死去した。はじめ娘婿の忠篤を養嗣子としていたが早世したため、代わって養嗣子とした忠実が跡を継いだ。 (ja)
  • 水野 忠韶(みずの ただてる、宝暦11年11月2日(1761年11月27日) - 文政11年5月26日(1828年7月7日))は、安房北条藩の第3代藩主、のち上総鶴牧藩の初代藩主。忠位系水野家4代。 北条藩第2代藩主・水野忠見の長男。正室は大岡忠喜の娘、継室は溝口直養の娘。子は娘(水野忠篤正室)。官位は従五位下、壱岐守。 忠見は兄・忠寛の遺児である忠廉を養嗣子にしていたが、忠廉は早世したため、安永4年(1775年)の忠見の死去により、忠韶が跡を継ぐこととなった。安永8年(1779年)12月に叙任する。 天明4年(1784年)3月に大番頭となり、天明7年(1787年)3月に奏者番となる。文化5年(1808年)11月には若年寄となった。文政10年(1827年)8月19日、上総鶴牧に移封となる。 文政11年(1828年)5月26日(5月27日とも)に死去した。はじめ娘婿の忠篤を養嗣子としていたが早世したため、代わって養嗣子とした忠実が跡を継いだ。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 383795 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1333 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 91860004 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:date
  • 0001-09-10 (xsd:gMonthDay)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:ソートキー
  • 人1828年没 (ja)
  • 人1828年没 (ja)
dct:subject
rdfs:comment
  • 水野 忠韶(みずの ただてる、宝暦11年11月2日(1761年11月27日) - 文政11年5月26日(1828年7月7日))は、安房北条藩の第3代藩主、のち上総鶴牧藩の初代藩主。忠位系水野家4代。 北条藩第2代藩主・水野忠見の長男。正室は大岡忠喜の娘、継室は溝口直養の娘。子は娘(水野忠篤正室)。官位は従五位下、壱岐守。 忠見は兄・忠寛の遺児である忠廉を養嗣子にしていたが、忠廉は早世したため、安永4年(1775年)の忠見の死去により、忠韶が跡を継ぐこととなった。安永8年(1779年)12月に叙任する。 天明4年(1784年)3月に大番頭となり、天明7年(1787年)3月に奏者番となる。文化5年(1808年)11月には若年寄となった。文政10年(1827年)8月19日、上総鶴牧に移封となる。 文政11年(1828年)5月26日(5月27日とも)に死去した。はじめ娘婿の忠篤を養嗣子としていたが早世したため、代わって養嗣子とした忠実が跡を継いだ。 (ja)
  • 水野 忠韶(みずの ただてる、宝暦11年11月2日(1761年11月27日) - 文政11年5月26日(1828年7月7日))は、安房北条藩の第3代藩主、のち上総鶴牧藩の初代藩主。忠位系水野家4代。 北条藩第2代藩主・水野忠見の長男。正室は大岡忠喜の娘、継室は溝口直養の娘。子は娘(水野忠篤正室)。官位は従五位下、壱岐守。 忠見は兄・忠寛の遺児である忠廉を養嗣子にしていたが、忠廉は早世したため、安永4年(1775年)の忠見の死去により、忠韶が跡を継ぐこととなった。安永8年(1779年)12月に叙任する。 天明4年(1784年)3月に大番頭となり、天明7年(1787年)3月に奏者番となる。文化5年(1808年)11月には若年寄となった。文政10年(1827年)8月19日、上総鶴牧に移封となる。 文政11年(1828年)5月26日(5月27日とも)に死去した。はじめ娘婿の忠篤を養嗣子としていたが早世したため、代わって養嗣子とした忠実が跡を継いだ。 (ja)
rdfs:label
  • 水野忠韶 (ja)
  • 水野忠韶 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of