水野 忠見(みずの ただちか、享保15年(1730年)- 安永4年8月19日(1775年9月13日))は、安房北条藩の第2代藩主。忠位系水野家3代。 初代藩主・水野忠定の次男。母は水野忠位の娘。正室は板倉勝清の娘。子に水野忠韶(長男)、(次男)、(三男)、(四男)、娘(加藤明陳正室)、娘(内田正純正室)、娘(正室)。官位は従五位下、肥前守、壱岐守。 幼名は吉次郎。寛保3年(1743年)、兄・忠寛の早世により世子となる。延享元年(1744年)12月、従五位下肥前守に叙任される。延享5年(1748年)、父の死去により跡を継いだ。寛延2年(1749年)8月に大番頭となり、宝暦7年(1757年)3月に奏者番、同年11月に壱岐守に任官される。宝暦8年(1758年)9月には西の丸若年寄となった。安永4年(1775年)8月19日、46歳で死去した。 はじめ兄・忠寛の長男・忠廉を嫡子としていたが家督相続前に死去したため、跡は長男の忠韶が継いだ。法号は本誉常自寂湛法従院。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。

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  • 水野 忠見(みずの ただちか、享保15年(1730年)- 安永4年8月19日(1775年9月13日))は、安房北条藩の第2代藩主。忠位系水野家3代。 初代藩主・水野忠定の次男。母は水野忠位の娘。正室は板倉勝清の娘。子に水野忠韶(長男)、(次男)、(三男)、(四男)、娘(加藤明陳正室)、娘(内田正純正室)、娘(正室)。官位は従五位下、肥前守、壱岐守。 幼名は吉次郎。寛保3年(1743年)、兄・忠寛の早世により世子となる。延享元年(1744年)12月、従五位下肥前守に叙任される。延享5年(1748年)、父の死去により跡を継いだ。寛延2年(1749年)8月に大番頭となり、宝暦7年(1757年)3月に奏者番、同年11月に壱岐守に任官される。宝暦8年(1758年)9月には西の丸若年寄となった。安永4年(1775年)8月19日、46歳で死去した。 はじめ兄・忠寛の長男・忠廉を嫡子としていたが家督相続前に死去したため、跡は長男の忠韶が継いだ。法号は本誉常自寂湛法従院。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。 (ja)
  • 水野 忠見(みずの ただちか、享保15年(1730年)- 安永4年8月19日(1775年9月13日))は、安房北条藩の第2代藩主。忠位系水野家3代。 初代藩主・水野忠定の次男。母は水野忠位の娘。正室は板倉勝清の娘。子に水野忠韶(長男)、(次男)、(三男)、(四男)、娘(加藤明陳正室)、娘(内田正純正室)、娘(正室)。官位は従五位下、肥前守、壱岐守。 幼名は吉次郎。寛保3年(1743年)、兄・忠寛の早世により世子となる。延享元年(1744年)12月、従五位下肥前守に叙任される。延享5年(1748年)、父の死去により跡を継いだ。寛延2年(1749年)8月に大番頭となり、宝暦7年(1757年)3月に奏者番、同年11月に壱岐守に任官される。宝暦8年(1758年)9月には西の丸若年寄となった。安永4年(1775年)8月19日、46歳で死去した。 はじめ兄・忠寛の長男・忠廉を嫡子としていたが家督相続前に死去したため、跡は長男の忠韶が継いだ。法号は本誉常自寂湛法従院。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。 (ja)
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