梅田 盛香(うめだ もりか、? - 文化3年9月12日(1806年10月23日))は、江戸時代後期の薩摩藩の藩士。梅田盛庸の次男。の師範。目附、大島代官、御使番、御用人、勘定奉行を務め、清水郷地頭を兼任した。通称は九左衛門。隠居後は梅秀と号す。 兄の墓石に「梅田九左衛門源盛住」とあることや、隠居後の盛香のことを「梅秀源盛香」と書いていることより、本姓は源氏であることがわかる。 家格は小番であり、安永年間の「三州御治世要覧 巻37」によると、薬丸兼中と同じ2番与小番に所属していた。また、造士館とともに設立された稽古所(のちに演武館)の槍術師範となる。 琉球王国尚温王の謝恩使を家老(薩摩二階堂氏嫡流子孫)が引率して江戸に上った際、用人として同行する。このため、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三』の行智の系譜や『南聘紀考 下』に「梅田盛香」の名が登場する。行智付きの用人だったため、謝恩使引率時の用人としての仕事については「伊地知季安著作集三」の行智の系譜に散見される。

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  • 梅田 盛香(うめだ もりか、? - 文化3年9月12日(1806年10月23日))は、江戸時代後期の薩摩藩の藩士。梅田盛庸の次男。の師範。目附、大島代官、御使番、御用人、勘定奉行を務め、清水郷地頭を兼任した。通称は九左衛門。隠居後は梅秀と号す。 兄の墓石に「梅田九左衛門源盛住」とあることや、隠居後の盛香のことを「梅秀源盛香」と書いていることより、本姓は源氏であることがわかる。 家格は小番であり、安永年間の「三州御治世要覧 巻37」によると、薬丸兼中と同じ2番与小番に所属していた。また、造士館とともに設立された稽古所(のちに演武館)の槍術師範となる。 琉球王国尚温王の謝恩使を家老(薩摩二階堂氏嫡流子孫)が引率して江戸に上った際、用人として同行する。このため、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三』の行智の系譜や『南聘紀考 下』に「梅田盛香」の名が登場する。行智付きの用人だったため、謝恩使引率時の用人としての仕事については「伊地知季安著作集三」の行智の系譜に散見される。 (ja)
  • 梅田 盛香(うめだ もりか、? - 文化3年9月12日(1806年10月23日))は、江戸時代後期の薩摩藩の藩士。梅田盛庸の次男。の師範。目附、大島代官、御使番、御用人、勘定奉行を務め、清水郷地頭を兼任した。通称は九左衛門。隠居後は梅秀と号す。 兄の墓石に「梅田九左衛門源盛住」とあることや、隠居後の盛香のことを「梅秀源盛香」と書いていることより、本姓は源氏であることがわかる。 家格は小番であり、安永年間の「三州御治世要覧 巻37」によると、薬丸兼中と同じ2番与小番に所属していた。また、造士館とともに設立された稽古所(のちに演武館)の槍術師範となる。 琉球王国尚温王の謝恩使を家老(薩摩二階堂氏嫡流子孫)が引率して江戸に上った際、用人として同行する。このため、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三』の行智の系譜や『南聘紀考 下』に「梅田盛香」の名が登場する。行智付きの用人だったため、謝恩使引率時の用人としての仕事については「伊地知季安著作集三」の行智の系譜に散見される。 (ja)
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  • 梅田 盛香(うめだ もりか、? - 文化3年9月12日(1806年10月23日))は、江戸時代後期の薩摩藩の藩士。梅田盛庸の次男。の師範。目附、大島代官、御使番、御用人、勘定奉行を務め、清水郷地頭を兼任した。通称は九左衛門。隠居後は梅秀と号す。 兄の墓石に「梅田九左衛門源盛住」とあることや、隠居後の盛香のことを「梅秀源盛香」と書いていることより、本姓は源氏であることがわかる。 家格は小番であり、安永年間の「三州御治世要覧 巻37」によると、薬丸兼中と同じ2番与小番に所属していた。また、造士館とともに設立された稽古所(のちに演武館)の槍術師範となる。 琉球王国尚温王の謝恩使を家老(薩摩二階堂氏嫡流子孫)が引率して江戸に上った際、用人として同行する。このため、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三』の行智の系譜や『南聘紀考 下』に「梅田盛香」の名が登場する。行智付きの用人だったため、謝恩使引率時の用人としての仕事については「伊地知季安著作集三」の行智の系譜に散見される。 (ja)
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  • 梅田盛香 (ja)
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