東条 義孝(とうじょう よしたか)は、江戸時代前期の江戸幕府の旗本。通称は長十郎(ちょうじゅうろう)、織部(おりべ)。 高家旗本の吉良義冬の三男として誕生した。母は旗本酒井忠吉の娘。生年は不詳であるが、兄の吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、義孝が生まれたのはそれ以降となる。吉良家の家督は長兄義央が継ぎ、次兄義叔は分家旗本として東条家を興した。これとは別に義孝も分家旗本の東条家を興した。 寛文4年(1664年)4月28日、はじめて将軍徳川家綱に拝謁する。延宝6年(1678年)3月29日から書院番士となる。延宝8年(1680年)3月26日から切米300俵を賜った。 その後駿府城勤務となったが、貞享2年(1685年)2月15日にこの任にあった際に報告すべきことを隠したとされ、閉門を命じられた。同年9月8日に赦免される。 貞享5年(1688年)5月20日に死去した。子がなかったが、末弟の冬重が養子に入っており、義孝流東条家の家督を継いだ。

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  • 東条 義孝(とうじょう よしたか)は、江戸時代前期の江戸幕府の旗本。通称は長十郎(ちょうじゅうろう)、織部(おりべ)。 高家旗本の吉良義冬の三男として誕生した。母は旗本酒井忠吉の娘。生年は不詳であるが、兄の吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、義孝が生まれたのはそれ以降となる。吉良家の家督は長兄義央が継ぎ、次兄義叔は分家旗本として東条家を興した。これとは別に義孝も分家旗本の東条家を興した。 寛文4年(1664年)4月28日、はじめて将軍徳川家綱に拝謁する。延宝6年(1678年)3月29日から書院番士となる。延宝8年(1680年)3月26日から切米300俵を賜った。 その後駿府城勤務となったが、貞享2年(1685年)2月15日にこの任にあった際に報告すべきことを隠したとされ、閉門を命じられた。同年9月8日に赦免される。 貞享5年(1688年)5月20日に死去した。子がなかったが、末弟の冬重が養子に入っており、義孝流東条家の家督を継いだ。 (ja)
  • 東条 義孝(とうじょう よしたか)は、江戸時代前期の江戸幕府の旗本。通称は長十郎(ちょうじゅうろう)、織部(おりべ)。 高家旗本の吉良義冬の三男として誕生した。母は旗本酒井忠吉の娘。生年は不詳であるが、兄の吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、義孝が生まれたのはそれ以降となる。吉良家の家督は長兄義央が継ぎ、次兄義叔は分家旗本として東条家を興した。これとは別に義孝も分家旗本の東条家を興した。 寛文4年(1664年)4月28日、はじめて将軍徳川家綱に拝謁する。延宝6年(1678年)3月29日から書院番士となる。延宝8年(1680年)3月26日から切米300俵を賜った。 その後駿府城勤務となったが、貞享2年(1685年)2月15日にこの任にあった際に報告すべきことを隠したとされ、閉門を命じられた。同年9月8日に赦免される。 貞享5年(1688年)5月20日に死去した。子がなかったが、末弟の冬重が養子に入っており、義孝流東条家の家督を継いだ。 (ja)
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