村松 志保子(むらまつ しほこ、1854年〈安政元年7月23日〉 - 1922年〈大正11年〉1月26日)は、日本の医師、助産師。日本の明治期以前までの出産の危険性を憂いて、自ら産婆(助産師)になると共に、産婆学校を起こして後進の育成を図った。経験の身に頼っていた「産婆」に代わり、近代的な知識と技術を兼ね備えた「助産師」の誕生となる道筋を作った人物であり、「助産師の母」とも呼ばれる。実業家の山田宗有(山田寅次郎)は従姉弟(志保子の母の弟の子)、ロシア学者の八杉貞利は甥(妹の子)にあたる。