木村 専一(きむら せんいち、1900年 - 1938年)は、日本の写真編集者、写真家。 写真家・に写真を学ぶ。 1923年にオリエンタル写真工業に入り、1924年創刊された写真雑誌「フォトタイムス」の編集主幹となった(オリエンタル写真工業宣伝課のなかにフォトタイムス社が設けられた)。1925年頃から、同誌上に「モダーン・フォトセクション」というコーナーを設けて、欧米の写真の新動向を紹介し、日本の写真に大きな影響を与えた。 1930年には、堀野正雄、渡辺義雄らとともに新興写真研究会を結成し、会長として、新興写真の振興に努めた。 1931年から1932年にかけて、山田英吉、中山正一、安本江陽とともに渡欧・渡米し、現地の写真の状況を視察した(バウハウスも訪問した)。その間、ラースロー・モホイ=ナジ、マン・レイ、ウンボらの300点以上の写真作品を取得し、帰国。フォトタイムスにこれらの写真作品を掲載しつつ、視察状況を紹介した(1932年12月号から1934年3月号まで)。なお、現在、これらの作品の一部は、東京都写真美術館に所蔵されている(「木村専一コレクション」)が、展示等によりその全貌が紹介されたことはない。 1934年には、オリエンタル写真工業を退職し、武蔵野写真学校を創立した。

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  • 木村 専一(きむら せんいち、1900年 - 1938年)は、日本の写真編集者、写真家。 写真家・に写真を学ぶ。 1923年にオリエンタル写真工業に入り、1924年創刊された写真雑誌「フォトタイムス」の編集主幹となった(オリエンタル写真工業宣伝課のなかにフォトタイムス社が設けられた)。1925年頃から、同誌上に「モダーン・フォトセクション」というコーナーを設けて、欧米の写真の新動向を紹介し、日本の写真に大きな影響を与えた。 1930年には、堀野正雄、渡辺義雄らとともに新興写真研究会を結成し、会長として、新興写真の振興に努めた。 1931年から1932年にかけて、山田英吉、中山正一、安本江陽とともに渡欧・渡米し、現地の写真の状況を視察した(バウハウスも訪問した)。その間、ラースロー・モホイ=ナジ、マン・レイ、ウンボらの300点以上の写真作品を取得し、帰国。フォトタイムスにこれらの写真作品を掲載しつつ、視察状況を紹介した(1932年12月号から1934年3月号まで)。なお、現在、これらの作品の一部は、東京都写真美術館に所蔵されている(「木村専一コレクション」)が、展示等によりその全貌が紹介されたことはない。 1934年には、オリエンタル写真工業を退職し、武蔵野写真学校を創立した。 (ja)
  • 木村 専一(きむら せんいち、1900年 - 1938年)は、日本の写真編集者、写真家。 写真家・に写真を学ぶ。 1923年にオリエンタル写真工業に入り、1924年創刊された写真雑誌「フォトタイムス」の編集主幹となった(オリエンタル写真工業宣伝課のなかにフォトタイムス社が設けられた)。1925年頃から、同誌上に「モダーン・フォトセクション」というコーナーを設けて、欧米の写真の新動向を紹介し、日本の写真に大きな影響を与えた。 1930年には、堀野正雄、渡辺義雄らとともに新興写真研究会を結成し、会長として、新興写真の振興に努めた。 1931年から1932年にかけて、山田英吉、中山正一、安本江陽とともに渡欧・渡米し、現地の写真の状況を視察した(バウハウスも訪問した)。その間、ラースロー・モホイ=ナジ、マン・レイ、ウンボらの300点以上の写真作品を取得し、帰国。フォトタイムスにこれらの写真作品を掲載しつつ、視察状況を紹介した(1932年12月号から1934年3月号まで)。なお、現在、これらの作品の一部は、東京都写真美術館に所蔵されている(「木村専一コレクション」)が、展示等によりその全貌が紹介されたことはない。 1934年には、オリエンタル写真工業を退職し、武蔵野写真学校を創立した。 (ja)
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  • 木村 専一(きむら せんいち、1900年 - 1938年)は、日本の写真編集者、写真家。 写真家・に写真を学ぶ。 1923年にオリエンタル写真工業に入り、1924年創刊された写真雑誌「フォトタイムス」の編集主幹となった(オリエンタル写真工業宣伝課のなかにフォトタイムス社が設けられた)。1925年頃から、同誌上に「モダーン・フォトセクション」というコーナーを設けて、欧米の写真の新動向を紹介し、日本の写真に大きな影響を与えた。 1930年には、堀野正雄、渡辺義雄らとともに新興写真研究会を結成し、会長として、新興写真の振興に努めた。 1931年から1932年にかけて、山田英吉、中山正一、安本江陽とともに渡欧・渡米し、現地の写真の状況を視察した(バウハウスも訪問した)。その間、ラースロー・モホイ=ナジ、マン・レイ、ウンボらの300点以上の写真作品を取得し、帰国。フォトタイムスにこれらの写真作品を掲載しつつ、視察状況を紹介した(1932年12月号から1934年3月号まで)。なお、現在、これらの作品の一部は、東京都写真美術館に所蔵されている(「木村専一コレクション」)が、展示等によりその全貌が紹介されたことはない。 1934年には、オリエンタル写真工業を退職し、武蔵野写真学校を創立した。 (ja)
  • 木村 専一(きむら せんいち、1900年 - 1938年)は、日本の写真編集者、写真家。 写真家・に写真を学ぶ。 1923年にオリエンタル写真工業に入り、1924年創刊された写真雑誌「フォトタイムス」の編集主幹となった(オリエンタル写真工業宣伝課のなかにフォトタイムス社が設けられた)。1925年頃から、同誌上に「モダーン・フォトセクション」というコーナーを設けて、欧米の写真の新動向を紹介し、日本の写真に大きな影響を与えた。 1930年には、堀野正雄、渡辺義雄らとともに新興写真研究会を結成し、会長として、新興写真の振興に努めた。 1931年から1932年にかけて、山田英吉、中山正一、安本江陽とともに渡欧・渡米し、現地の写真の状況を視察した(バウハウスも訪問した)。その間、ラースロー・モホイ=ナジ、マン・レイ、ウンボらの300点以上の写真作品を取得し、帰国。フォトタイムスにこれらの写真作品を掲載しつつ、視察状況を紹介した(1932年12月号から1934年3月号まで)。なお、現在、これらの作品の一部は、東京都写真美術館に所蔵されている(「木村専一コレクション」)が、展示等によりその全貌が紹介されたことはない。 1934年には、オリエンタル写真工業を退職し、武蔵野写真学校を創立した。 (ja)
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  • 木村専一 (ja)
  • 木村専一 (ja)
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