戸川 安論(とがわ やすとも、宝暦12年(1762年) - 文政4年3月23日(1821年4月25日))は、江戸時代の幕臣(旗本)。知行400石のち500石。官位は筑前守。通称は、内記のち藤十郎。 医家・の次男として生まれる。安永6年(1777年)に戸川安精の養子となり、同年、安精が死去したため跡目相続した。 天明2年(1783年)、御小納戸となり、同年、布衣の着用を許される。享和元年(1801年)、御小納戸頭取。この頃、従五位下に叙され、筑前守を名乗る。享和2年(1802年)2月、新設の蝦夷奉行(同年5月に箱館奉行、文化4年(1807年)に松前奉行に改称)となり、上野国群馬郡内に100石の加増を受け、中島戸川家の家禄は知行500石となる。 文化5年(1808年)4月、文化露寇の責により松前奉行を罷免され、寄合入りおよび差控となる。文化12年(1815年)、広敷御用人として役職に復帰し、文政4年(1821年)、在任中に死去した。目黒・最上寺に墓所がある。 跡目は子の安清が継いだ。

Property Value
dbo:abstract
  • 戸川 安論(とがわ やすとも、宝暦12年(1762年) - 文政4年3月23日(1821年4月25日))は、江戸時代の幕臣(旗本)。知行400石のち500石。官位は筑前守。通称は、内記のち藤十郎。 医家・の次男として生まれる。安永6年(1777年)に戸川安精の養子となり、同年、安精が死去したため跡目相続した。 天明2年(1783年)、御小納戸となり、同年、布衣の着用を許される。享和元年(1801年)、御小納戸頭取。この頃、従五位下に叙され、筑前守を名乗る。享和2年(1802年)2月、新設の蝦夷奉行(同年5月に箱館奉行、文化4年(1807年)に松前奉行に改称)となり、上野国群馬郡内に100石の加増を受け、中島戸川家の家禄は知行500石となる。 文化5年(1808年)4月、文化露寇の責により松前奉行を罷免され、寄合入りおよび差控となる。文化12年(1815年)、広敷御用人として役職に復帰し、文政4年(1821年)、在任中に死去した。目黒・最上寺に墓所がある。 跡目は子の安清が継いだ。 (ja)
  • 戸川 安論(とがわ やすとも、宝暦12年(1762年) - 文政4年3月23日(1821年4月25日))は、江戸時代の幕臣(旗本)。知行400石のち500石。官位は筑前守。通称は、内記のち藤十郎。 医家・の次男として生まれる。安永6年(1777年)に戸川安精の養子となり、同年、安精が死去したため跡目相続した。 天明2年(1783年)、御小納戸となり、同年、布衣の着用を許される。享和元年(1801年)、御小納戸頭取。この頃、従五位下に叙され、筑前守を名乗る。享和2年(1802年)2月、新設の蝦夷奉行(同年5月に箱館奉行、文化4年(1807年)に松前奉行に改称)となり、上野国群馬郡内に100石の加増を受け、中島戸川家の家禄は知行500石となる。 文化5年(1808年)4月、文化露寇の責により松前奉行を罷免され、寄合入りおよび差控となる。文化12年(1815年)、広敷御用人として役職に復帰し、文政4年(1821年)、在任中に死去した。目黒・最上寺に墓所がある。 跡目は子の安清が継いだ。 (ja)
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 1636400 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1189 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 70374594 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-en:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 戸川 安論(とがわ やすとも、宝暦12年(1762年) - 文政4年3月23日(1821年4月25日))は、江戸時代の幕臣(旗本)。知行400石のち500石。官位は筑前守。通称は、内記のち藤十郎。 医家・の次男として生まれる。安永6年(1777年)に戸川安精の養子となり、同年、安精が死去したため跡目相続した。 天明2年(1783年)、御小納戸となり、同年、布衣の着用を許される。享和元年(1801年)、御小納戸頭取。この頃、従五位下に叙され、筑前守を名乗る。享和2年(1802年)2月、新設の蝦夷奉行(同年5月に箱館奉行、文化4年(1807年)に松前奉行に改称)となり、上野国群馬郡内に100石の加増を受け、中島戸川家の家禄は知行500石となる。 文化5年(1808年)4月、文化露寇の責により松前奉行を罷免され、寄合入りおよび差控となる。文化12年(1815年)、広敷御用人として役職に復帰し、文政4年(1821年)、在任中に死去した。目黒・最上寺に墓所がある。 跡目は子の安清が継いだ。 (ja)
  • 戸川 安論(とがわ やすとも、宝暦12年(1762年) - 文政4年3月23日(1821年4月25日))は、江戸時代の幕臣(旗本)。知行400石のち500石。官位は筑前守。通称は、内記のち藤十郎。 医家・の次男として生まれる。安永6年(1777年)に戸川安精の養子となり、同年、安精が死去したため跡目相続した。 天明2年(1783年)、御小納戸となり、同年、布衣の着用を許される。享和元年(1801年)、御小納戸頭取。この頃、従五位下に叙され、筑前守を名乗る。享和2年(1802年)2月、新設の蝦夷奉行(同年5月に箱館奉行、文化4年(1807年)に松前奉行に改称)となり、上野国群馬郡内に100石の加増を受け、中島戸川家の家禄は知行500石となる。 文化5年(1808年)4月、文化露寇の責により松前奉行を罷免され、寄合入りおよび差控となる。文化12年(1815年)、広敷御用人として役職に復帰し、文政4年(1821年)、在任中に死去した。目黒・最上寺に墓所がある。 跡目は子の安清が継いだ。 (ja)
rdfs:label
  • 戸川安論 (ja)
  • 戸川安論 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of