出石弘道館(いずしこうどうかん)は、出石藩の藩校。 1775年(安永4年)9月28日、出石藩6代藩主・仙石政辰が出石城の東門外の伊木町に学問所という仮校舎を建てたことに始まる。1782年(天明2年)、仙石久行が約241坪の校舎を拡張造営して、弘道館と名付け、京都の伊藤東所を招いて開講した。それにより、以後、藩学に仁斎派の古学の展開をみ、のち1811年(文化8年)には聖堂も造営された。水戸藩、佐賀藩、出石藩の弘道館はに称されており出石のものが最も古いものと言われている。1876年(明治9年)の大火で建物は焼失。1912年(大正元年)に跡地に石碑が建てられ、その弘道の名は出石の弘道小学校に受け継がれている。

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  • 出石弘道館(いずしこうどうかん)は、出石藩の藩校。 1775年(安永4年)9月28日、出石藩6代藩主・仙石政辰が出石城の東門外の伊木町に学問所という仮校舎を建てたことに始まる。1782年(天明2年)、仙石久行が約241坪の校舎を拡張造営して、弘道館と名付け、京都の伊藤東所を招いて開講した。それにより、以後、藩学に仁斎派の古学の展開をみ、のち1811年(文化8年)には聖堂も造営された。水戸藩、佐賀藩、出石藩の弘道館はに称されており出石のものが最も古いものと言われている。1876年(明治9年)の大火で建物は焼失。1912年(大正元年)に跡地に石碑が建てられ、その弘道の名は出石の弘道小学校に受け継がれている。 (ja)
  • 出石弘道館(いずしこうどうかん)は、出石藩の藩校。 1775年(安永4年)9月28日、出石藩6代藩主・仙石政辰が出石城の東門外の伊木町に学問所という仮校舎を建てたことに始まる。1782年(天明2年)、仙石久行が約241坪の校舎を拡張造営して、弘道館と名付け、京都の伊藤東所を招いて開講した。それにより、以後、藩学に仁斎派の古学の展開をみ、のち1811年(文化8年)には聖堂も造営された。水戸藩、佐賀藩、出石藩の弘道館はに称されており出石のものが最も古いものと言われている。1876年(明治9年)の大火で建物は焼失。1912年(大正元年)に跡地に石碑が建てられ、その弘道の名は出石の弘道小学校に受け継がれている。 (ja)
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  • 出石弘道館(いずしこうどうかん)は、出石藩の藩校。 1775年(安永4年)9月28日、出石藩6代藩主・仙石政辰が出石城の東門外の伊木町に学問所という仮校舎を建てたことに始まる。1782年(天明2年)、仙石久行が約241坪の校舎を拡張造営して、弘道館と名付け、京都の伊藤東所を招いて開講した。それにより、以後、藩学に仁斎派の古学の展開をみ、のち1811年(文化8年)には聖堂も造営された。水戸藩、佐賀藩、出石藩の弘道館はに称されており出石のものが最も古いものと言われている。1876年(明治9年)の大火で建物は焼失。1912年(大正元年)に跡地に石碑が建てられ、その弘道の名は出石の弘道小学校に受け継がれている。 (ja)
  • 出石弘道館(いずしこうどうかん)は、出石藩の藩校。 1775年(安永4年)9月28日、出石藩6代藩主・仙石政辰が出石城の東門外の伊木町に学問所という仮校舎を建てたことに始まる。1782年(天明2年)、仙石久行が約241坪の校舎を拡張造営して、弘道館と名付け、京都の伊藤東所を招いて開講した。それにより、以後、藩学に仁斎派の古学の展開をみ、のち1811年(文化8年)には聖堂も造営された。水戸藩、佐賀藩、出石藩の弘道館はに称されており出石のものが最も古いものと言われている。1876年(明治9年)の大火で建物は焼失。1912年(大正元年)に跡地に石碑が建てられ、その弘道の名は出石の弘道小学校に受け継がれている。 (ja)
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  • 弘道館 (出石藩) (ja)
  • 弘道館 (出石藩) (ja)
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