小馬命婦(こうまのみょうぶ/こまのみょうぶ、生没年不詳)は、平安時代円融朝の女流歌人。生没年及び系譜不詳。馬古曽(むまこそ)とも呼ばれた。 関白藤原兼通及び藤原媓子(兼通の娘・円融天皇皇后)に女房として仕える。天元2年(979年)に媓子が崩御した後、出家した。元良親王・藤原高遠・・清原元輔らと交流があった。 家集に『小馬命婦集』があり、勅撰和歌集では『拾遺和歌集』『新古今和歌集』『玉葉和歌集』に計7首が入集している。 * 数ならぬ身ははしたかの鈴鹿山とはぬに何の音をかはせむ(玉葉和歌集1568)

Property Value
dbo:abstract
  • 小馬命婦(こうまのみょうぶ/こまのみょうぶ、生没年不詳)は、平安時代円融朝の女流歌人。生没年及び系譜不詳。馬古曽(むまこそ)とも呼ばれた。 関白藤原兼通及び藤原媓子(兼通の娘・円融天皇皇后)に女房として仕える。天元2年(979年)に媓子が崩御した後、出家した。元良親王・藤原高遠・・清原元輔らと交流があった。 家集に『小馬命婦集』があり、勅撰和歌集では『拾遺和歌集』『新古今和歌集』『玉葉和歌集』に計7首が入集している。 * 数ならぬ身ははしたかの鈴鹿山とはぬに何の音をかはせむ(玉葉和歌集1568) (ja)
  • 小馬命婦(こうまのみょうぶ/こまのみょうぶ、生没年不詳)は、平安時代円融朝の女流歌人。生没年及び系譜不詳。馬古曽(むまこそ)とも呼ばれた。 関白藤原兼通及び藤原媓子(兼通の娘・円融天皇皇后)に女房として仕える。天元2年(979年)に媓子が崩御した後、出家した。元良親王・藤原高遠・・清原元輔らと交流があった。 家集に『小馬命婦集』があり、勅撰和歌集では『拾遺和歌集』『新古今和歌集』『玉葉和歌集』に計7首が入集している。 * 数ならぬ身ははしたかの鈴鹿山とはぬに何の音をかはせむ(玉葉和歌集1568) (ja)
dbo:wikiPageID
  • 637618 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 690 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 90210807 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 小馬命婦(こうまのみょうぶ/こまのみょうぶ、生没年不詳)は、平安時代円融朝の女流歌人。生没年及び系譜不詳。馬古曽(むまこそ)とも呼ばれた。 関白藤原兼通及び藤原媓子(兼通の娘・円融天皇皇后)に女房として仕える。天元2年(979年)に媓子が崩御した後、出家した。元良親王・藤原高遠・・清原元輔らと交流があった。 家集に『小馬命婦集』があり、勅撰和歌集では『拾遺和歌集』『新古今和歌集』『玉葉和歌集』に計7首が入集している。 * 数ならぬ身ははしたかの鈴鹿山とはぬに何の音をかはせむ(玉葉和歌集1568) (ja)
  • 小馬命婦(こうまのみょうぶ/こまのみょうぶ、生没年不詳)は、平安時代円融朝の女流歌人。生没年及び系譜不詳。馬古曽(むまこそ)とも呼ばれた。 関白藤原兼通及び藤原媓子(兼通の娘・円融天皇皇后)に女房として仕える。天元2年(979年)に媓子が崩御した後、出家した。元良親王・藤原高遠・・清原元輔らと交流があった。 家集に『小馬命婦集』があり、勅撰和歌集では『拾遺和歌集』『新古今和歌集』『玉葉和歌集』に計7首が入集している。 * 数ならぬ身ははしたかの鈴鹿山とはぬに何の音をかはせむ(玉葉和歌集1568) (ja)
rdfs:label
  • 小馬命婦 (ja)
  • 小馬命婦 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageRedirects of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of