将作大匠(しょうさくたいしょう)は、中国の秦・前漢の官職名。宮殿や宗廟等の造営を司る。元は将作少府といった。 前漢においては官秩は二千石で、丞(副官)2名と左右中候がおり、属官には石庫、東園主章、左右前後中校の七令、丞と主章長、丞があった。 景帝の中元6年(紀元前144年)に将作少府から将作大匠に改称した。武帝の太初元年(紀元前104年)に東園主章を木工と改称した。成帝の陽朔3年(紀元前22年)には中候と左右前後中校の5丞を廃止した。 後漢においては光武帝の建武中元2年(57年)に一旦廃止されて謁者が領することとされたが、章帝の建初元年(76年)に復活した。官秩二千石で、丞1名と左校令、右校令が属した。

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  • 将作大匠(しょうさくたいしょう)は、中国の秦・前漢の官職名。宮殿や宗廟等の造営を司る。元は将作少府といった。 前漢においては官秩は二千石で、丞(副官)2名と左右中候がおり、属官には石庫、東園主章、左右前後中校の七令、丞と主章長、丞があった。 景帝の中元6年(紀元前144年)に将作少府から将作大匠に改称した。武帝の太初元年(紀元前104年)に東園主章を木工と改称した。成帝の陽朔3年(紀元前22年)には中候と左右前後中校の5丞を廃止した。 後漢においては光武帝の建武中元2年(57年)に一旦廃止されて謁者が領することとされたが、章帝の建初元年(76年)に復活した。官秩二千石で、丞1名と左校令、右校令が属した。 (ja)
  • 将作大匠(しょうさくたいしょう)は、中国の秦・前漢の官職名。宮殿や宗廟等の造営を司る。元は将作少府といった。 前漢においては官秩は二千石で、丞(副官)2名と左右中候がおり、属官には石庫、東園主章、左右前後中校の七令、丞と主章長、丞があった。 景帝の中元6年(紀元前144年)に将作少府から将作大匠に改称した。武帝の太初元年(紀元前104年)に東園主章を木工と改称した。成帝の陽朔3年(紀元前22年)には中候と左右前後中校の5丞を廃止した。 後漢においては光武帝の建武中元2年(57年)に一旦廃止されて謁者が領することとされたが、章帝の建初元年(76年)に復活した。官秩二千石で、丞1名と左校令、右校令が属した。 (ja)
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  • 将作大匠(しょうさくたいしょう)は、中国の秦・前漢の官職名。宮殿や宗廟等の造営を司る。元は将作少府といった。 前漢においては官秩は二千石で、丞(副官)2名と左右中候がおり、属官には石庫、東園主章、左右前後中校の七令、丞と主章長、丞があった。 景帝の中元6年(紀元前144年)に将作少府から将作大匠に改称した。武帝の太初元年(紀元前104年)に東園主章を木工と改称した。成帝の陽朔3年(紀元前22年)には中候と左右前後中校の5丞を廃止した。 後漢においては光武帝の建武中元2年(57年)に一旦廃止されて謁者が領することとされたが、章帝の建初元年(76年)に復活した。官秩二千石で、丞1名と左校令、右校令が属した。 (ja)
  • 将作大匠(しょうさくたいしょう)は、中国の秦・前漢の官職名。宮殿や宗廟等の造営を司る。元は将作少府といった。 前漢においては官秩は二千石で、丞(副官)2名と左右中候がおり、属官には石庫、東園主章、左右前後中校の七令、丞と主章長、丞があった。 景帝の中元6年(紀元前144年)に将作少府から将作大匠に改称した。武帝の太初元年(紀元前104年)に東園主章を木工と改称した。成帝の陽朔3年(紀元前22年)には中候と左右前後中校の5丞を廃止した。 後漢においては光武帝の建武中元2年(57年)に一旦廃止されて謁者が領することとされたが、章帝の建初元年(76年)に復活した。官秩二千石で、丞1名と左校令、右校令が属した。 (ja)
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  • 将作大匠 (ja)
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