安政3年の大風災(あんせい3ねんのたいふうさい)は、江戸時代の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけての夜間に、江戸を中心とする関東地方で発生した大規模な風水害である。江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことにより、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって発生した。また暴風雨に加えて、火災が起きたことも被害を拡大させた。 この台風による死者数は諸説あり、資料によっても異なるが、最も多いものでおよそ100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害とされている。 なお、この災害を引き起こした台風は、安政江戸台風と呼ばれる。 『武江年表』には、この大風災について以下のように記されている。 この大風災による死者は、近世史略によると100,000人余りとなっているが、仮にこの死者数が正しいとすると、日本台風災害の死者としては最多となり、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害となる。「」(安政3年12月出版・金屯道人編)の挿絵には、安政3年の大風災の様子を描いた絵図がある。

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  • 安政3年の大風災(あんせい3ねんのたいふうさい)は、江戸時代の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけての夜間に、江戸を中心とする関東地方で発生した大規模な風水害である。江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことにより、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって発生した。また暴風雨に加えて、火災が起きたことも被害を拡大させた。 この台風による死者数は諸説あり、資料によっても異なるが、最も多いものでおよそ100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害とされている。 なお、この災害を引き起こした台風は、安政江戸台風と呼ばれる。 『武江年表』には、この大風災について以下のように記されている。 「八月二十三日、微雨。二十四日、二十五日、続いて微雨。二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚だしく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀墻を損ふ。又 海嘯により逆浪漲りて、大小の船を覆し、或ひは岸に打上げ、石垣を損じ、洪波陸へいつ濫して家屋を傷ふ。この間、水面にしばしば火光を現はす。此の時、水中に溺死怪瑕人算ふべからず。 (略) 翌二十六日朝より霽に属す (諸商人活業を休みこと数日なり。) 人家所々潰れたる、数ふべからず。寅卯両年の災に罹りし場所、家作の新らしきも潰れしあり。去冬の地震にいたみしは更なり。微塵になりしもの数を知らず。(略) ことに駭歎すべきは築地西本願寺の御堂なり。さしもの大厦なれども一時に潰れて、微塵とはなれり。此の辺、船松町、上柳原町、南本郷町、十軒町、南飯田町、南小田原町、深川洲崎、芝高繩、品川等の海岸は殊に風浪烈しく、人家を溺らし、或ひは逆浪にさそはれて海中へ漂汎し、資財雑具は見るが内に流れ失せたり。(略)」 — 武江年表 この大風災による死者は、近世史略によると100,000人余りとなっているが、仮にこの死者数が正しいとすると、日本台風災害の死者としては最多となり、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害となる。「」(安政3年12月出版・金屯道人編)の挿絵には、安政3年の大風災の様子を描いた絵図がある。 (ja)
  • 安政3年の大風災(あんせい3ねんのたいふうさい)は、江戸時代の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけての夜間に、江戸を中心とする関東地方で発生した大規模な風水害である。江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことにより、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって発生した。また暴風雨に加えて、火災が起きたことも被害を拡大させた。 この台風による死者数は諸説あり、資料によっても異なるが、最も多いものでおよそ100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害とされている。 なお、この災害を引き起こした台風は、安政江戸台風と呼ばれる。 『武江年表』には、この大風災について以下のように記されている。 「八月二十三日、微雨。二十四日、二十五日、続いて微雨。二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚だしく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀墻を損ふ。又 海嘯により逆浪漲りて、大小の船を覆し、或ひは岸に打上げ、石垣を損じ、洪波陸へいつ濫して家屋を傷ふ。この間、水面にしばしば火光を現はす。此の時、水中に溺死怪瑕人算ふべからず。 (略) 翌二十六日朝より霽に属す (諸商人活業を休みこと数日なり。) 人家所々潰れたる、数ふべからず。寅卯両年の災に罹りし場所、家作の新らしきも潰れしあり。去冬の地震にいたみしは更なり。微塵になりしもの数を知らず。(略) ことに駭歎すべきは築地西本願寺の御堂なり。さしもの大厦なれども一時に潰れて、微塵とはなれり。此の辺、船松町、上柳原町、南本郷町、十軒町、南飯田町、南小田原町、深川洲崎、芝高繩、品川等の海岸は殊に風浪烈しく、人家を溺らし、或ひは逆浪にさそはれて海中へ漂汎し、資財雑具は見るが内に流れ失せたり。(略)」 — 武江年表 この大風災による死者は、近世史略によると100,000人余りとなっているが、仮にこの死者数が正しいとすると、日本台風災害の死者としては最多となり、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害となる。「」(安政3年12月出版・金屯道人編)の挿絵には、安政3年の大風災の様子を描いた絵図がある。 (ja)
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  • 安政3年の大風災(あんせい3ねんのたいふうさい)は、江戸時代の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけての夜間に、江戸を中心とする関東地方で発生した大規模な風水害である。江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことにより、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって発生した。また暴風雨に加えて、火災が起きたことも被害を拡大させた。 この台風による死者数は諸説あり、資料によっても異なるが、最も多いものでおよそ100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害とされている。 なお、この災害を引き起こした台風は、安政江戸台風と呼ばれる。 『武江年表』には、この大風災について以下のように記されている。 この大風災による死者は、近世史略によると100,000人余りとなっているが、仮にこの死者数が正しいとすると、日本台風災害の死者としては最多となり、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害となる。「」(安政3年12月出版・金屯道人編)の挿絵には、安政3年の大風災の様子を描いた絵図がある。 (ja)
  • 安政3年の大風災(あんせい3ねんのたいふうさい)は、江戸時代の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけての夜間に、江戸を中心とする関東地方で発生した大規模な風水害である。江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことにより、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって発生した。また暴風雨に加えて、火災が起きたことも被害を拡大させた。 この台風による死者数は諸説あり、資料によっても異なるが、最も多いものでおよそ100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害とされている。 なお、この災害を引き起こした台風は、安政江戸台風と呼ばれる。 『武江年表』には、この大風災について以下のように記されている。 この大風災による死者は、近世史略によると100,000人余りとなっているが、仮にこの死者数が正しいとすると、日本台風災害の死者としては最多となり、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害となる。「」(安政3年12月出版・金屯道人編)の挿絵には、安政3年の大風災の様子を描いた絵図がある。 (ja)
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