大関 宗増(おおぜき むねます)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。那須氏の家臣。 大関氏は武蔵七党・丹党流とされ、那須七騎の一つ。寛正3年(1462年)、の子として誕生。 那須資房による那須氏再統一に功があったが、永正15年(1518年)、同僚の大田原資清の才を妬んで主君に讒言し、これを追放して専横を極めた。 天文11年(1542年)、越前国の朝倉氏の支援を受けたともされる大田原資清が帰参し、宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死、宗増は資清の長男・大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた。