夏目 甕麿(なつめ みかまろ、安永2年5月5日(1773年6月24日) - 文政5年5月5日(1822年6月23日))は江戸時代後期の国学者。遠江国浜名郡(現・湖西市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。幼名は小八郎。名は英積。通称は小八、のちに嘉右衛門。号は萩園など。加納諸平の父。弟子はなど。司馬江漢と交友があったという。酒好き。 寛政2年(1790年)名主職を継ぎ、同9年(1797年)、内山真龍門に。翌年、本居宣長の門人となった。宣長の没した享和元年(1801年)には本居春庭に入門、本居大平に兄事。 文化11年(1814年)隠居。地名の語学的研究を行い、文化13年(1816年)『駿河国号考』を著した。文政元年(1818年)『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担し家産傾く。翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽(現・伊丹市)などを転々とする。文政5年(1822年)、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたのだという。享年50。墓は三河吉田普門寺、摂津伊丹。 主な著作に『吉野乃若菜』『万葉摘草』。

Property Value
dbo:abstract
  • 夏目 甕麿(なつめ みかまろ、安永2年5月5日(1773年6月24日) - 文政5年5月5日(1822年6月23日))は江戸時代後期の国学者。遠江国浜名郡(現・湖西市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。幼名は小八郎。名は英積。通称は小八、のちに嘉右衛門。号は萩園など。加納諸平の父。弟子はなど。司馬江漢と交友があったという。酒好き。 寛政2年(1790年)名主職を継ぎ、同9年(1797年)、内山真龍門に。翌年、本居宣長の門人となった。宣長の没した享和元年(1801年)には本居春庭に入門、本居大平に兄事。 文化11年(1814年)隠居。地名の語学的研究を行い、文化13年(1816年)『駿河国号考』を著した。文政元年(1818年)『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担し家産傾く。翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽(現・伊丹市)などを転々とする。文政5年(1822年)、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたのだという。享年50。墓は三河吉田普門寺、摂津伊丹。 主な著作に『吉野乃若菜』『万葉摘草』。 (ja)
  • 夏目 甕麿(なつめ みかまろ、安永2年5月5日(1773年6月24日) - 文政5年5月5日(1822年6月23日))は江戸時代後期の国学者。遠江国浜名郡(現・湖西市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。幼名は小八郎。名は英積。通称は小八、のちに嘉右衛門。号は萩園など。加納諸平の父。弟子はなど。司馬江漢と交友があったという。酒好き。 寛政2年(1790年)名主職を継ぎ、同9年(1797年)、内山真龍門に。翌年、本居宣長の門人となった。宣長の没した享和元年(1801年)には本居春庭に入門、本居大平に兄事。 文化11年(1814年)隠居。地名の語学的研究を行い、文化13年(1816年)『駿河国号考』を著した。文政元年(1818年)『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担し家産傾く。翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽(現・伊丹市)などを転々とする。文政5年(1822年)、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたのだという。享年50。墓は三河吉田普門寺、摂津伊丹。 主な著作に『吉野乃若菜』『万葉摘草』。 (ja)
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 1799221 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1173 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 86268331 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-en:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 夏目 甕麿(なつめ みかまろ、安永2年5月5日(1773年6月24日) - 文政5年5月5日(1822年6月23日))は江戸時代後期の国学者。遠江国浜名郡(現・湖西市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。幼名は小八郎。名は英積。通称は小八、のちに嘉右衛門。号は萩園など。加納諸平の父。弟子はなど。司馬江漢と交友があったという。酒好き。 寛政2年(1790年)名主職を継ぎ、同9年(1797年)、内山真龍門に。翌年、本居宣長の門人となった。宣長の没した享和元年(1801年)には本居春庭に入門、本居大平に兄事。 文化11年(1814年)隠居。地名の語学的研究を行い、文化13年(1816年)『駿河国号考』を著した。文政元年(1818年)『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担し家産傾く。翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽(現・伊丹市)などを転々とする。文政5年(1822年)、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたのだという。享年50。墓は三河吉田普門寺、摂津伊丹。 主な著作に『吉野乃若菜』『万葉摘草』。 (ja)
  • 夏目 甕麿(なつめ みかまろ、安永2年5月5日(1773年6月24日) - 文政5年5月5日(1822年6月23日))は江戸時代後期の国学者。遠江国浜名郡(現・湖西市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。幼名は小八郎。名は英積。通称は小八、のちに嘉右衛門。号は萩園など。加納諸平の父。弟子はなど。司馬江漢と交友があったという。酒好き。 寛政2年(1790年)名主職を継ぎ、同9年(1797年)、内山真龍門に。翌年、本居宣長の門人となった。宣長の没した享和元年(1801年)には本居春庭に入門、本居大平に兄事。 文化11年(1814年)隠居。地名の語学的研究を行い、文化13年(1816年)『駿河国号考』を著した。文政元年(1818年)『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担し家産傾く。翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽(現・伊丹市)などを転々とする。文政5年(1822年)、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたのだという。享年50。墓は三河吉田普門寺、摂津伊丹。 主な著作に『吉野乃若菜』『万葉摘草』。 (ja)
rdfs:label
  • 夏目甕麿 (ja)
  • 夏目甕麿 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is prop-en:影響を与えた人物 of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of