喜安(きあん、永禄8年12月29日(1566年1月20日) - 承応2年閏6月18日(1653年8月10日))は、17世紀琉球で活躍した日本の茶人。 和泉国堺に生まれるが、父親が街角の占者に運勢を占わせたところ、「この地では大成しない。成長してから南国に赴けば、必ずや富貴の身となり、栄華に包まれるであろう」といわれたという。幼少から聡明であったといい、千利休の弟子である康印に師事し、茶の湯を教授される。また和歌や漢詩に通じた。 1600年に35歳で琉球に渡る。それから数年で王宮にも名が届き、尚寧王の侍従に取り立てられる。1609年の薩摩の琉球侵攻では、捕虜となった王に付き従い、薩摩側との折衝役を務めた。江戸での徳川秀忠への拝謁にも同行している。1611年の帰国後には御茶道職に任ぜられ、以後、日本式の茶道が琉球に広まった。薩摩には度々交渉で渡り、晩年には親方の位も授けられている。病没するまで御茶道職にあり、その死後も同職は琉球王府の官職として続いた。 尚豊王の時代に、薩摩との開戦前から王の帰国までの2年半を回想した『喜安日記』を著している。過去の軍記物語の影響下に書かれているが、薩摩侵攻に関する重要な史料で、同事件を琉球側の視点で記した唯一の史料である。

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  • 喜安(きあん、永禄8年12月29日(1566年1月20日) - 承応2年閏6月18日(1653年8月10日))は、17世紀琉球で活躍した日本の茶人。 和泉国堺に生まれるが、父親が街角の占者に運勢を占わせたところ、「この地では大成しない。成長してから南国に赴けば、必ずや富貴の身となり、栄華に包まれるであろう」といわれたという。幼少から聡明であったといい、千利休の弟子である康印に師事し、茶の湯を教授される。また和歌や漢詩に通じた。 1600年に35歳で琉球に渡る。それから数年で王宮にも名が届き、尚寧王の侍従に取り立てられる。1609年の薩摩の琉球侵攻では、捕虜となった王に付き従い、薩摩側との折衝役を務めた。江戸での徳川秀忠への拝謁にも同行している。1611年の帰国後には御茶道職に任ぜられ、以後、日本式の茶道が琉球に広まった。薩摩には度々交渉で渡り、晩年には親方の位も授けられている。病没するまで御茶道職にあり、その死後も同職は琉球王府の官職として続いた。 尚豊王の時代に、薩摩との開戦前から王の帰国までの2年半を回想した『喜安日記』を著している。過去の軍記物語の影響下に書かれているが、薩摩侵攻に関する重要な史料で、同事件を琉球側の視点で記した唯一の史料である。 (ja)
  • 喜安(きあん、永禄8年12月29日(1566年1月20日) - 承応2年閏6月18日(1653年8月10日))は、17世紀琉球で活躍した日本の茶人。 和泉国堺に生まれるが、父親が街角の占者に運勢を占わせたところ、「この地では大成しない。成長してから南国に赴けば、必ずや富貴の身となり、栄華に包まれるであろう」といわれたという。幼少から聡明であったといい、千利休の弟子である康印に師事し、茶の湯を教授される。また和歌や漢詩に通じた。 1600年に35歳で琉球に渡る。それから数年で王宮にも名が届き、尚寧王の侍従に取り立てられる。1609年の薩摩の琉球侵攻では、捕虜となった王に付き従い、薩摩側との折衝役を務めた。江戸での徳川秀忠への拝謁にも同行している。1611年の帰国後には御茶道職に任ぜられ、以後、日本式の茶道が琉球に広まった。薩摩には度々交渉で渡り、晩年には親方の位も授けられている。病没するまで御茶道職にあり、その死後も同職は琉球王府の官職として続いた。 尚豊王の時代に、薩摩との開戦前から王の帰国までの2年半を回想した『喜安日記』を著している。過去の軍記物語の影響下に書かれているが、薩摩侵攻に関する重要な史料で、同事件を琉球側の視点で記した唯一の史料である。 (ja)
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