光墨 弘(みつずみ ひろし、1909年-1977年)は、日本の写真家。光画、NIPPON、FRONT、写真週報などに写真を掲載した、報道写真系統の写真家である。 初期の経歴は、資料がなく不明。 1931年、野々宮写真館の助手となり、野島康三に師事する 1935年、日本工房に入る。NIPPONにその写真作品が掲載される。 1938年11月8日から12日にかけて日本橋小西六ホールにて開催された「12回野々宮展」に写真作品1点を出品している(渋谷区立松濤美術館の「生誕120年 野島康三−肖像の核心展」(2009年)出品の案内より)。 1938年には、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、杉山吉良、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を結成した。 1941年には、渡辺義雄、菊池俊吉、濱谷浩、渡辺勉、大木実、林重男、薗部澄らとともに東方社に参画。『FRONT』掲載の写真を撮影するなどの活動を行った。 1941年11月、陸軍徴用を受ける。開戦後、マライ方面航空作戦に、航空部隊付報道班員を命ぜられる。1942年12月、帰還。その間に撮影した写真の一部が、下記「南方報道写真集マライ」にまとめられている。 その他、光画、写真週報にもその写真作品が掲載されている。 光墨弘についてのまとまった展覧会や文献は、2011年現在存在しない。

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  • 光墨 弘(みつずみ ひろし、1909年-1977年)は、日本の写真家。光画、NIPPON、FRONT、写真週報などに写真を掲載した、報道写真系統の写真家である。 初期の経歴は、資料がなく不明。 1931年、野々宮写真館の助手となり、野島康三に師事する 1935年、日本工房に入る。NIPPONにその写真作品が掲載される。 1938年11月8日から12日にかけて日本橋小西六ホールにて開催された「12回野々宮展」に写真作品1点を出品している(渋谷区立松濤美術館の「生誕120年 野島康三−肖像の核心展」(2009年)出品の案内より)。 1938年には、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、杉山吉良、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を結成した。 1941年には、渡辺義雄、菊池俊吉、濱谷浩、渡辺勉、大木実、林重男、薗部澄らとともに東方社に参画。『FRONT』掲載の写真を撮影するなどの活動を行った。 1941年11月、陸軍徴用を受ける。開戦後、マライ方面航空作戦に、航空部隊付報道班員を命ぜられる。1942年12月、帰還。その間に撮影した写真の一部が、下記「南方報道写真集マライ」にまとめられている。 その他、光画、写真週報にもその写真作品が掲載されている。 なお、太田英茂とも関係があり、『広告はわが生涯の仕事に非ず ―― 昭和宣伝広告の先駆者・太田英茂 ――』(多川精一・岩波書店・2003年)に掲載された「太田英茂の再上京を歓迎する会に集まった弟子たち(1951年3月)」という写真には、光墨弘も写っている(岩波書店のページ)。弟子だったといえる可能性もある。 光墨弘についてのまとまった展覧会や文献は、2011年現在存在しない。 (ja)
  • 光墨 弘(みつずみ ひろし、1909年-1977年)は、日本の写真家。光画、NIPPON、FRONT、写真週報などに写真を掲載した、報道写真系統の写真家である。 初期の経歴は、資料がなく不明。 1931年、野々宮写真館の助手となり、野島康三に師事する 1935年、日本工房に入る。NIPPONにその写真作品が掲載される。 1938年11月8日から12日にかけて日本橋小西六ホールにて開催された「12回野々宮展」に写真作品1点を出品している(渋谷区立松濤美術館の「生誕120年 野島康三−肖像の核心展」(2009年)出品の案内より)。 1938年には、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、杉山吉良、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を結成した。 1941年には、渡辺義雄、菊池俊吉、濱谷浩、渡辺勉、大木実、林重男、薗部澄らとともに東方社に参画。『FRONT』掲載の写真を撮影するなどの活動を行った。 1941年11月、陸軍徴用を受ける。開戦後、マライ方面航空作戦に、航空部隊付報道班員を命ぜられる。1942年12月、帰還。その間に撮影した写真の一部が、下記「南方報道写真集マライ」にまとめられている。 その他、光画、写真週報にもその写真作品が掲載されている。 なお、太田英茂とも関係があり、『広告はわが生涯の仕事に非ず ―― 昭和宣伝広告の先駆者・太田英茂 ――』(多川精一・岩波書店・2003年)に掲載された「太田英茂の再上京を歓迎する会に集まった弟子たち(1951年3月)」という写真には、光墨弘も写っている(岩波書店のページ)。弟子だったといえる可能性もある。 光墨弘についてのまとまった展覧会や文献は、2011年現在存在しない。 (ja)
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  • 光墨 弘(みつずみ ひろし、1909年-1977年)は、日本の写真家。光画、NIPPON、FRONT、写真週報などに写真を掲載した、報道写真系統の写真家である。 初期の経歴は、資料がなく不明。 1931年、野々宮写真館の助手となり、野島康三に師事する 1935年、日本工房に入る。NIPPONにその写真作品が掲載される。 1938年11月8日から12日にかけて日本橋小西六ホールにて開催された「12回野々宮展」に写真作品1点を出品している(渋谷区立松濤美術館の「生誕120年 野島康三−肖像の核心展」(2009年)出品の案内より)。 1938年には、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、杉山吉良、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を結成した。 1941年には、渡辺義雄、菊池俊吉、濱谷浩、渡辺勉、大木実、林重男、薗部澄らとともに東方社に参画。『FRONT』掲載の写真を撮影するなどの活動を行った。 1941年11月、陸軍徴用を受ける。開戦後、マライ方面航空作戦に、航空部隊付報道班員を命ぜられる。1942年12月、帰還。その間に撮影した写真の一部が、下記「南方報道写真集マライ」にまとめられている。 その他、光画、写真週報にもその写真作品が掲載されている。 光墨弘についてのまとまった展覧会や文献は、2011年現在存在しない。 (ja)
  • 光墨 弘(みつずみ ひろし、1909年-1977年)は、日本の写真家。光画、NIPPON、FRONT、写真週報などに写真を掲載した、報道写真系統の写真家である。 初期の経歴は、資料がなく不明。 1931年、野々宮写真館の助手となり、野島康三に師事する 1935年、日本工房に入る。NIPPONにその写真作品が掲載される。 1938年11月8日から12日にかけて日本橋小西六ホールにて開催された「12回野々宮展」に写真作品1点を出品している(渋谷区立松濤美術館の「生誕120年 野島康三−肖像の核心展」(2009年)出品の案内より)。 1938年には、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、杉山吉良、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を結成した。 1941年には、渡辺義雄、菊池俊吉、濱谷浩、渡辺勉、大木実、林重男、薗部澄らとともに東方社に参画。『FRONT』掲載の写真を撮影するなどの活動を行った。 1941年11月、陸軍徴用を受ける。開戦後、マライ方面航空作戦に、航空部隊付報道班員を命ぜられる。1942年12月、帰還。その間に撮影した写真の一部が、下記「南方報道写真集マライ」にまとめられている。 その他、光画、写真週報にもその写真作品が掲載されている。 光墨弘についてのまとまった展覧会や文献は、2011年現在存在しない。 (ja)
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