桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年(大正2年)12月9日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。 1938年にはライカIIIとズマール50mmF2を自分の金530円で購入した。 1940年には南満州鉄道の主催する「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に参加し、満州を撮影。帰国後「満州撮影隊現地報告展(東京日本橋白木屋)」に出展。1943年には在郷軍人会の依頼で出征軍人の留守家族を撮影。1944年、外務省の外郭団体である(PNP)に写真部員として数か月勤め、初めてプロの写真家として仕事をした。 戦後の使用カメラはライカM3にエルマーを装着していたことが知られている。

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  • 桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年(大正2年)12月9日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。 主として上野、浅草など東京の下町を撮影し『アサヒカメラ』、『フォトタイムス』、『』などの写真雑誌で多くの入選を果たした。1936年の成績が第1位だったため1937年に『カメラアート』の第1回推薦作家となり、2月号が特集『桑原甲子雄推薦号』となった。この時木村伊兵衛が『桑原甲子雄論』を書いている。1930年代を代表するアマチュア写真家として『フォトタイムス』などにエッセイを寄せるが、アマチュアであることに徹する。このころ、盲腸炎で療養中に濱谷より金丸重嶺の『』(1931年)を贈られ、新興写真の動向に興味をもつ。またこの頃、石津良介の組織した「」の山崎治雄、植田正治、、緑川洋一らと広島、東京にて交流。 1938年にはライカIIIとズマール50mmF2を自分の金530円で購入した。 1940年には南満州鉄道の主催する「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に参加し、満州を撮影。帰国後「満州撮影隊現地報告展(東京日本橋白木屋)」に出展。1943年には在郷軍人会の依頼で出征軍人の留守家族を撮影。1944年、外務省の外郭団体である(PNP)に写真部員として数か月勤め、初めてプロの写真家として仕事をした。 戦後は一転してアルス『カメラ』の編集長に就任して長く勤め、月例写真の選者に土門拳と木村伊兵衛を起用した。当時プロとアマチュアの社会的隔たりは大きく、これは桑原の行なった斬新な変革のひとつだった。土門のリアリズム運動の拠点となり、東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らが投稿した。これ以降『サンケイカメラ』、『カメラ芸術』などいくつもの写真雑誌の編集長を歴任し、写真作品の制作よりも新人育成や写真評論に重点をおいた活動を行う。荒木経惟はそこから育っていった一人である。 戦後の使用カメラはライカM3にエルマーを装着していたことが知られている。 1960年代末頃から、桑原が撮った戦前の作品が再評価され始め、何冊もの写真集が出版された。 2007年12月10日に老衰のため死去。94歳没。 (ja)
  • 桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年(大正2年)12月9日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。 主として上野、浅草など東京の下町を撮影し『アサヒカメラ』、『フォトタイムス』、『』などの写真雑誌で多くの入選を果たした。1936年の成績が第1位だったため1937年に『カメラアート』の第1回推薦作家となり、2月号が特集『桑原甲子雄推薦号』となった。この時木村伊兵衛が『桑原甲子雄論』を書いている。1930年代を代表するアマチュア写真家として『フォトタイムス』などにエッセイを寄せるが、アマチュアであることに徹する。このころ、盲腸炎で療養中に濱谷より金丸重嶺の『』(1931年)を贈られ、新興写真の動向に興味をもつ。またこの頃、石津良介の組織した「」の山崎治雄、植田正治、、緑川洋一らと広島、東京にて交流。 1938年にはライカIIIとズマール50mmF2を自分の金530円で購入した。 1940年には南満州鉄道の主催する「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に参加し、満州を撮影。帰国後「満州撮影隊現地報告展(東京日本橋白木屋)」に出展。1943年には在郷軍人会の依頼で出征軍人の留守家族を撮影。1944年、外務省の外郭団体である(PNP)に写真部員として数か月勤め、初めてプロの写真家として仕事をした。 戦後は一転してアルス『カメラ』の編集長に就任して長く勤め、月例写真の選者に土門拳と木村伊兵衛を起用した。当時プロとアマチュアの社会的隔たりは大きく、これは桑原の行なった斬新な変革のひとつだった。土門のリアリズム運動の拠点となり、東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らが投稿した。これ以降『サンケイカメラ』、『カメラ芸術』などいくつもの写真雑誌の編集長を歴任し、写真作品の制作よりも新人育成や写真評論に重点をおいた活動を行う。荒木経惟はそこから育っていった一人である。 戦後の使用カメラはライカM3にエルマーを装着していたことが知られている。 1960年代末頃から、桑原が撮った戦前の作品が再評価され始め、何冊もの写真集が出版された。 2007年12月10日に老衰のため死去。94歳没。 (ja)
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  • 桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年(大正2年)12月9日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。 1938年にはライカIIIとズマール50mmF2を自分の金530円で購入した。 1940年には南満州鉄道の主催する「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に参加し、満州を撮影。帰国後「満州撮影隊現地報告展(東京日本橋白木屋)」に出展。1943年には在郷軍人会の依頼で出征軍人の留守家族を撮影。1944年、外務省の外郭団体である(PNP)に写真部員として数か月勤め、初めてプロの写真家として仕事をした。 戦後の使用カメラはライカM3にエルマーを装着していたことが知られている。 (ja)
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