伊木 八郎(いき はちろう、生没年不詳)は、新選組隊士。 大阪の出身といわれる。文久3年(1863年)秋以降に新選組へ入隊。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊(井上源三郎、松原忠司の隊とも)に所属し、屋外の守備を担当した。後に15両の褒賞金を得ている。同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属し、慶応2年(1866年)の三条制札事件では原田左之助らと共に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、15両の恩賞金を得た。 慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねるものの、同年の12月までに脱走したとされる。以降の消息は不明。

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  • 伊木 八郎(いき はちろう、生没年不詳)は、新選組隊士。 大阪の出身といわれる。文久3年(1863年)秋以降に新選組へ入隊。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊(井上源三郎、松原忠司の隊とも)に所属し、屋外の守備を担当した。後に15両の褒賞金を得ている。同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属し、慶応2年(1866年)の三条制札事件では原田左之助らと共に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、15両の恩賞金を得た。 慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねるものの、同年の12月までに脱走したとされる。以降の消息は不明。 (ja)
  • 伊木 八郎(いき はちろう、生没年不詳)は、新選組隊士。 大阪の出身といわれる。文久3年(1863年)秋以降に新選組へ入隊。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊(井上源三郎、松原忠司の隊とも)に所属し、屋外の守備を担当した。後に15両の褒賞金を得ている。同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属し、慶応2年(1866年)の三条制札事件では原田左之助らと共に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、15両の恩賞金を得た。 慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねるものの、同年の12月までに脱走したとされる。以降の消息は不明。 (ja)
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  • 伊木 八郎(いき はちろう、生没年不詳)は、新選組隊士。 大阪の出身といわれる。文久3年(1863年)秋以降に新選組へ入隊。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊(井上源三郎、松原忠司の隊とも)に所属し、屋外の守備を担当した。後に15両の褒賞金を得ている。同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属し、慶応2年(1866年)の三条制札事件では原田左之助らと共に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、15両の恩賞金を得た。 慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねるものの、同年の12月までに脱走したとされる。以降の消息は不明。 (ja)
  • 伊木 八郎(いき はちろう、生没年不詳)は、新選組隊士。 大阪の出身といわれる。文久3年(1863年)秋以降に新選組へ入隊。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊(井上源三郎、松原忠司の隊とも)に所属し、屋外の守備を担当した。後に15両の褒賞金を得ている。同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属し、慶応2年(1866年)の三条制札事件では原田左之助らと共に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、15両の恩賞金を得た。 慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねるものの、同年の12月までに脱走したとされる。以降の消息は不明。 (ja)
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  • 伊木八郎 (ja)
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