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- 今帰仁 朝典(なきじん ちょうてん、生年不詳 - 没年は嘉靖年間(1522年-1566年))は琉球王国第二尚氏王統・第3代尚真王の三男。向氏具志川御殿の元祖。唐名は尚韶威、童名は真武体金。 生年不詳であるが、兄:尚維衡・浦添王子朝満(尚真王の長男)の生年が弘治7年(1494年)で、弟にあたる尚清王(尚真王の五男)の生年が弘治10年(1497年)であることから、1494年から1497年の間に生まれていることが推測される。 向氏具志川御殿における初代の北山監守で、同家七世にあたる向従憲・今帰仁按司朝幸まで代々監守職を世襲し、同家は今帰仁間切(現在の今帰仁村)に居住した。ところで監守職に任命されたのを家譜では「弘治年間(1488年-1505年)」としているが、先の生年の推測からしても、どんなに長じていても数え12歳の幼年で監守職に任命されたことになる。家譜の記述が正しいとすると、監守職就任の当初は、実質的な職務は別の者があたっていたことが窺い知れる。 墓所は那覇市首里の玉陵である。一部書籍などには墓所を山川の玉陵としているものもあるが、それは誤り。家譜上の「西之玉陵」を誤解し、それを「玉陵の西方に位置する山川の玉陵」とする誤謬であるが、「西之玉陵」は「玉陵の西室」という意味である。 (ja)
- 今帰仁 朝典(なきじん ちょうてん、生年不詳 - 没年は嘉靖年間(1522年-1566年))は琉球王国第二尚氏王統・第3代尚真王の三男。向氏具志川御殿の元祖。唐名は尚韶威、童名は真武体金。 生年不詳であるが、兄:尚維衡・浦添王子朝満(尚真王の長男)の生年が弘治7年(1494年)で、弟にあたる尚清王(尚真王の五男)の生年が弘治10年(1497年)であることから、1494年から1497年の間に生まれていることが推測される。 向氏具志川御殿における初代の北山監守で、同家七世にあたる向従憲・今帰仁按司朝幸まで代々監守職を世襲し、同家は今帰仁間切(現在の今帰仁村)に居住した。ところで監守職に任命されたのを家譜では「弘治年間(1488年-1505年)」としているが、先の生年の推測からしても、どんなに長じていても数え12歳の幼年で監守職に任命されたことになる。家譜の記述が正しいとすると、監守職就任の当初は、実質的な職務は別の者があたっていたことが窺い知れる。 墓所は那覇市首里の玉陵である。一部書籍などには墓所を山川の玉陵としているものもあるが、それは誤り。家譜上の「西之玉陵」を誤解し、それを「玉陵の西方に位置する山川の玉陵」とする誤謬であるが、「西之玉陵」は「玉陵の西室」という意味である。 (ja)
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- 今帰仁 朝典(なきじん ちょうてん、生年不詳 - 没年は嘉靖年間(1522年-1566年))は琉球王国第二尚氏王統・第3代尚真王の三男。向氏具志川御殿の元祖。唐名は尚韶威、童名は真武体金。 生年不詳であるが、兄:尚維衡・浦添王子朝満(尚真王の長男)の生年が弘治7年(1494年)で、弟にあたる尚清王(尚真王の五男)の生年が弘治10年(1497年)であることから、1494年から1497年の間に生まれていることが推測される。 向氏具志川御殿における初代の北山監守で、同家七世にあたる向従憲・今帰仁按司朝幸まで代々監守職を世襲し、同家は今帰仁間切(現在の今帰仁村)に居住した。ところで監守職に任命されたのを家譜では「弘治年間(1488年-1505年)」としているが、先の生年の推測からしても、どんなに長じていても数え12歳の幼年で監守職に任命されたことになる。家譜の記述が正しいとすると、監守職就任の当初は、実質的な職務は別の者があたっていたことが窺い知れる。 墓所は那覇市首里の玉陵である。一部書籍などには墓所を山川の玉陵としているものもあるが、それは誤り。家譜上の「西之玉陵」を誤解し、それを「玉陵の西方に位置する山川の玉陵」とする誤謬であるが、「西之玉陵」は「玉陵の西室」という意味である。 (ja)
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