久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。 当時の責任者だった日本海軍通信隊の分遣隊の隊長であった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年(昭和47年)にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。 当時、久米島具志川村の村長であった濱川昌俊が残した日誌によれば、前任の分遣隊長と島民との間には和やかな交流があったが、鹿山兵曹長が隊長として赴任すると隊と島民との関係が一変。島民との間に壁を作り、一下士官でありながら、部隊長気取りで自らを神聖化し、隊員はじめ島民に対しても絶対服従を強いた。村長である濱川には一目置いていたが、村吏員に対しては聞く耳をかすどころではなかったという。なお、鹿山兵曹長は住民だけでなく、沖縄本島から脱出してきた日本兵に対しても「戦線離脱」を理由に処刑を命じていたようである。

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  • 久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。 当時の責任者だった日本海軍通信隊の分遣隊の隊長であった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年(昭和47年)にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。 当時、久米島具志川村の村長であった濱川昌俊が残した日誌によれば、前任の分遣隊長と島民との間には和やかな交流があったが、鹿山兵曹長が隊長として赴任すると隊と島民との関係が一変。島民との間に壁を作り、一下士官でありながら、部隊長気取りで自らを神聖化し、隊員はじめ島民に対しても絶対服従を強いた。村長である濱川には一目置いていたが、村吏員に対しては聞く耳をかすどころではなかったという。なお、鹿山兵曹長は住民だけでなく、沖縄本島から脱出してきた日本兵に対しても「戦線離脱」を理由に処刑を命じていたようである。 大島幸夫著の『沖縄の日本軍』(新泉社刊)によれば、一家を殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の反日的傾向から「こやつも将来日本を売ることになる」と危惧し、その旨を住民に説明した、いずれにしても、朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したとし、また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示されたとしている。 (ja)
  • 久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。 当時の責任者だった日本海軍通信隊の分遣隊の隊長であった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年(昭和47年)にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。 当時、久米島具志川村の村長であった濱川昌俊が残した日誌によれば、前任の分遣隊長と島民との間には和やかな交流があったが、鹿山兵曹長が隊長として赴任すると隊と島民との関係が一変。島民との間に壁を作り、一下士官でありながら、部隊長気取りで自らを神聖化し、隊員はじめ島民に対しても絶対服従を強いた。村長である濱川には一目置いていたが、村吏員に対しては聞く耳をかすどころではなかったという。なお、鹿山兵曹長は住民だけでなく、沖縄本島から脱出してきた日本兵に対しても「戦線離脱」を理由に処刑を命じていたようである。 大島幸夫著の『沖縄の日本軍』(新泉社刊)によれば、一家を殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の反日的傾向から「こやつも将来日本を売ることになる」と危惧し、その旨を住民に説明した、いずれにしても、朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したとし、また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示されたとしている。 (ja)
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  • 久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。 当時の責任者だった日本海軍通信隊の分遣隊の隊長であった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年(昭和47年)にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。 当時、久米島具志川村の村長であった濱川昌俊が残した日誌によれば、前任の分遣隊長と島民との間には和やかな交流があったが、鹿山兵曹長が隊長として赴任すると隊と島民との関係が一変。島民との間に壁を作り、一下士官でありながら、部隊長気取りで自らを神聖化し、隊員はじめ島民に対しても絶対服従を強いた。村長である濱川には一目置いていたが、村吏員に対しては聞く耳をかすどころではなかったという。なお、鹿山兵曹長は住民だけでなく、沖縄本島から脱出してきた日本兵に対しても「戦線離脱」を理由に処刑を命じていたようである。 (ja)
  • 久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。 当時の責任者だった日本海軍通信隊の分遣隊の隊長であった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年(昭和47年)にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。 当時、久米島具志川村の村長であった濱川昌俊が残した日誌によれば、前任の分遣隊長と島民との間には和やかな交流があったが、鹿山兵曹長が隊長として赴任すると隊と島民との関係が一変。島民との間に壁を作り、一下士官でありながら、部隊長気取りで自らを神聖化し、隊員はじめ島民に対しても絶対服従を強いた。村長である濱川には一目置いていたが、村吏員に対しては聞く耳をかすどころではなかったという。なお、鹿山兵曹長は住民だけでなく、沖縄本島から脱出してきた日本兵に対しても「戦線離脱」を理由に処刑を命じていたようである。 (ja)
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