オラトリオ『ヤコブの梯子』( - はしご、Die Jakobsleiter)は、アルノルト・シェーンベルクが作曲した未完のオラトリオである。旧約聖書『創世記』第28章の、ヤコブが見た夢を題材として、シェーンベルク自身が作詞した台本に基づいている。 当初は1912年にリヒャルト・デーメルに作詩を依頼したが拒否された。その後、独唱、混声合唱、大規模なオーケストラのための作品として構想され、1914年から1915年にかけてシェーンベルク自身による台本の執筆を開始、1917年5月にまず全2部からなる台本が完成した。その直後に作曲に着手したが、約600小節進んだところで同年9月に第一次世界大戦により3か月徴兵されたため作曲を中断、終戦後の1926年(1922年とも)に第1部の大半(さらに100小節)が完成したがそこで再び中断。その後、アメリカに亡命後の1944年に若干のオーケストレーションを手掛けたが、シェーンベルクは1951年に「『ヤコブの梯子』は未完のままになるかもしれない」と手紙に書いていた。その予感通り、数週間後の同年7月13日にシェーンベルクは亡くなり、全10曲からなる第1部と間奏曲、合わせて計700小節のスケッチが残された。第2部の作曲はついに成らずに終わった。

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  • オラトリオ『ヤコブの梯子』( - はしご、Die Jakobsleiter)は、アルノルト・シェーンベルクが作曲した未完のオラトリオである。旧約聖書『創世記』第28章の、ヤコブが見た夢を題材として、シェーンベルク自身が作詞した台本に基づいている。 当初は1912年にリヒャルト・デーメルに作詩を依頼したが拒否された。その後、独唱、混声合唱、大規模なオーケストラのための作品として構想され、1914年から1915年にかけてシェーンベルク自身による台本の執筆を開始、1917年5月にまず全2部からなる台本が完成した。その直後に作曲に着手したが、約600小節進んだところで同年9月に第一次世界大戦により3か月徴兵されたため作曲を中断、終戦後の1926年(1922年とも)に第1部の大半(さらに100小節)が完成したがそこで再び中断。その後、アメリカに亡命後の1944年に若干のオーケストレーションを手掛けたが、シェーンベルクは1951年に「『ヤコブの梯子』は未完のままになるかもしれない」と手紙に書いていた。その予感通り、数週間後の同年7月13日にシェーンベルクは亡くなり、全10曲からなる第1部と間奏曲、合わせて計700小節のスケッチが残された。第2部の作曲はついに成らずに終わった。 シェーンベルクの死後、ゲルトルード未亡人の要望により、弟子のヴィンフリート・ツィリヒが残された膨大なメモに基づき第1部と間奏曲を補筆完成した(編成については、当初の莫大な編成から、1944年に構想した編成に改められた)。冒頭180小節のみの初演は1958年1月10日にハンブルクで、ハンス・ロスバウト指揮、北ドイツ放送交響楽団および合唱団によって行われた。全曲初演は1961年6月16日にウィーンで、ラファエル・クーベリック指揮によって行われた。なお、1972年のオランダ・フェスティバルでの、のブルーノ・マデルナ指揮による演奏は、日本でもNHKのFM放送で放送されている。 自由な無調から十二音技法へ向かう過渡期の作品であり、の技法が用いられている。声楽には、シュプレヒゲザングが用いられている。シェーンベルクが除隊後に作曲を再開した時には、既に十二音技法に向かっていたために技法上折り合いがつかなくなったことが未完に終わった理由だと考えられている。 (ja)
  • オラトリオ『ヤコブの梯子』( - はしご、Die Jakobsleiter)は、アルノルト・シェーンベルクが作曲した未完のオラトリオである。旧約聖書『創世記』第28章の、ヤコブが見た夢を題材として、シェーンベルク自身が作詞した台本に基づいている。 当初は1912年にリヒャルト・デーメルに作詩を依頼したが拒否された。その後、独唱、混声合唱、大規模なオーケストラのための作品として構想され、1914年から1915年にかけてシェーンベルク自身による台本の執筆を開始、1917年5月にまず全2部からなる台本が完成した。その直後に作曲に着手したが、約600小節進んだところで同年9月に第一次世界大戦により3か月徴兵されたため作曲を中断、終戦後の1926年(1922年とも)に第1部の大半(さらに100小節)が完成したがそこで再び中断。その後、アメリカに亡命後の1944年に若干のオーケストレーションを手掛けたが、シェーンベルクは1951年に「『ヤコブの梯子』は未完のままになるかもしれない」と手紙に書いていた。その予感通り、数週間後の同年7月13日にシェーンベルクは亡くなり、全10曲からなる第1部と間奏曲、合わせて計700小節のスケッチが残された。第2部の作曲はついに成らずに終わった。 シェーンベルクの死後、ゲルトルード未亡人の要望により、弟子のヴィンフリート・ツィリヒが残された膨大なメモに基づき第1部と間奏曲を補筆完成した(編成については、当初の莫大な編成から、1944年に構想した編成に改められた)。冒頭180小節のみの初演は1958年1月10日にハンブルクで、ハンス・ロスバウト指揮、北ドイツ放送交響楽団および合唱団によって行われた。全曲初演は1961年6月16日にウィーンで、ラファエル・クーベリック指揮によって行われた。なお、1972年のオランダ・フェスティバルでの、のブルーノ・マデルナ指揮による演奏は、日本でもNHKのFM放送で放送されている。 自由な無調から十二音技法へ向かう過渡期の作品であり、の技法が用いられている。声楽には、シュプレヒゲザングが用いられている。シェーンベルクが除隊後に作曲を再開した時には、既に十二音技法に向かっていたために技法上折り合いがつかなくなったことが未完に終わった理由だと考えられている。 (ja)
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  • オラトリオ『ヤコブの梯子』( - はしご、Die Jakobsleiter)は、アルノルト・シェーンベルクが作曲した未完のオラトリオである。旧約聖書『創世記』第28章の、ヤコブが見た夢を題材として、シェーンベルク自身が作詞した台本に基づいている。 当初は1912年にリヒャルト・デーメルに作詩を依頼したが拒否された。その後、独唱、混声合唱、大規模なオーケストラのための作品として構想され、1914年から1915年にかけてシェーンベルク自身による台本の執筆を開始、1917年5月にまず全2部からなる台本が完成した。その直後に作曲に着手したが、約600小節進んだところで同年9月に第一次世界大戦により3か月徴兵されたため作曲を中断、終戦後の1926年(1922年とも)に第1部の大半(さらに100小節)が完成したがそこで再び中断。その後、アメリカに亡命後の1944年に若干のオーケストレーションを手掛けたが、シェーンベルクは1951年に「『ヤコブの梯子』は未完のままになるかもしれない」と手紙に書いていた。その予感通り、数週間後の同年7月13日にシェーンベルクは亡くなり、全10曲からなる第1部と間奏曲、合わせて計700小節のスケッチが残された。第2部の作曲はついに成らずに終わった。 (ja)
  • オラトリオ『ヤコブの梯子』( - はしご、Die Jakobsleiter)は、アルノルト・シェーンベルクが作曲した未完のオラトリオである。旧約聖書『創世記』第28章の、ヤコブが見た夢を題材として、シェーンベルク自身が作詞した台本に基づいている。 当初は1912年にリヒャルト・デーメルに作詩を依頼したが拒否された。その後、独唱、混声合唱、大規模なオーケストラのための作品として構想され、1914年から1915年にかけてシェーンベルク自身による台本の執筆を開始、1917年5月にまず全2部からなる台本が完成した。その直後に作曲に着手したが、約600小節進んだところで同年9月に第一次世界大戦により3か月徴兵されたため作曲を中断、終戦後の1926年(1922年とも)に第1部の大半(さらに100小節)が完成したがそこで再び中断。その後、アメリカに亡命後の1944年に若干のオーケストレーションを手掛けたが、シェーンベルクは1951年に「『ヤコブの梯子』は未完のままになるかもしれない」と手紙に書いていた。その予感通り、数週間後の同年7月13日にシェーンベルクは亡くなり、全10曲からなる第1部と間奏曲、合わせて計700小節のスケッチが残された。第2部の作曲はついに成らずに終わった。 (ja)
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  • ヤコブの梯子 (シェーンベルク) (ja)
  • ヤコブの梯子 (シェーンベルク) (ja)
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