ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus、470年頃 - 544年頃)は、ローマの神学者、教会法学者である。小ディオニュシウスとも。東ローマ帝国の小スキタイ地方(現ブルガリアのドブロジャ)出身。彼は小スキタイの主要都市、トミス(現コンスタンツァ)に集中しているスキタイの修道僧共同体の一員であった。 教皇ゲラシウス1世が没した頃(496年)から彼はローマで過ごし、ローマ教皇庁の教養が高い一員として、401の教会の正典をギリシア語からラテン語に翻訳してきた。それにはニカイア、コンスタンティノープル、カルケドン、サルディスの公会議による正典、教皇シリキウスによるアナスタシウス2世にあてたものなど、5世紀の集などを含む。これらの翻訳集は西洋において大きな権威をもち、まだ教会の管理を導いてすらいた。ディオニュシウスは初等数学に関する論文も書いている。 616年、ディオニュシウスのコンプトゥスの続きを著した著者は彼を「ローマ市で最も教養の深い修道院長」と表現している。ベーダ・ヴェネラビリスは彼にアッバス(大修道院長)の尊称を与えた。ただし、それはどのような修道僧(特に年長で尊敬を受けている僧)でも与えられるもので、必ずしもディオニュシウスがかつて修道院長を務めていたことを示すものではない。

Property Value
dbo:abstract
  • ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus、470年頃 - 544年頃)は、ローマの神学者、教会法学者である。小ディオニュシウスとも。東ローマ帝国の小スキタイ地方(現ブルガリアのドブロジャ)出身。彼は小スキタイの主要都市、トミス(現コンスタンツァ)に集中しているスキタイの修道僧共同体の一員であった。 教皇ゲラシウス1世が没した頃(496年)から彼はローマで過ごし、ローマ教皇庁の教養が高い一員として、401の教会の正典をギリシア語からラテン語に翻訳してきた。それにはニカイア、コンスタンティノープル、カルケドン、サルディスの公会議による正典、教皇シリキウスによるアナスタシウス2世にあてたものなど、5世紀の集などを含む。これらの翻訳集は西洋において大きな権威をもち、まだ教会の管理を導いてすらいた。ディオニュシウスは初等数学に関する論文も書いている。 616年、ディオニュシウスのコンプトゥスの続きを著した著者は彼を「ローマ市で最も教養の深い修道院長」と表現している。ベーダ・ヴェネラビリスは彼にアッバス(大修道院長)の尊称を与えた。ただし、それはどのような修道僧(特に年長で尊敬を受けている僧)でも与えられるもので、必ずしもディオニュシウスがかつて修道院長を務めていたことを示すものではない。 ディオニュシウスは西暦を案出したことで最もよく知られる。これはユリウス暦、グレゴリオ暦の形で千年以上用いられている。 (ja)
  • ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus、470年頃 - 544年頃)は、ローマの神学者、教会法学者である。小ディオニュシウスとも。東ローマ帝国の小スキタイ地方(現ブルガリアのドブロジャ)出身。彼は小スキタイの主要都市、トミス(現コンスタンツァ)に集中しているスキタイの修道僧共同体の一員であった。 教皇ゲラシウス1世が没した頃(496年)から彼はローマで過ごし、ローマ教皇庁の教養が高い一員として、401の教会の正典をギリシア語からラテン語に翻訳してきた。それにはニカイア、コンスタンティノープル、カルケドン、サルディスの公会議による正典、教皇シリキウスによるアナスタシウス2世にあてたものなど、5世紀の集などを含む。これらの翻訳集は西洋において大きな権威をもち、まだ教会の管理を導いてすらいた。ディオニュシウスは初等数学に関する論文も書いている。 616年、ディオニュシウスのコンプトゥスの続きを著した著者は彼を「ローマ市で最も教養の深い修道院長」と表現している。ベーダ・ヴェネラビリスは彼にアッバス(大修道院長)の尊称を与えた。ただし、それはどのような修道僧(特に年長で尊敬を受けている僧)でも与えられるもので、必ずしもディオニュシウスがかつて修道院長を務めていたことを示すものではない。 ディオニュシウスは西暦を案出したことで最もよく知られる。これはユリウス暦、グレゴリオ暦の形で千年以上用いられている。 (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageID
  • 53928 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 2046 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 90231005 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:date
  • 0001-03-31 (xsd:gMonthDay)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:ソートキー
  • 人0544年没 (ja)
  • 人0544年没 (ja)
dct:subject
rdfs:comment
  • ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus、470年頃 - 544年頃)は、ローマの神学者、教会法学者である。小ディオニュシウスとも。東ローマ帝国の小スキタイ地方(現ブルガリアのドブロジャ)出身。彼は小スキタイの主要都市、トミス(現コンスタンツァ)に集中しているスキタイの修道僧共同体の一員であった。 教皇ゲラシウス1世が没した頃(496年)から彼はローマで過ごし、ローマ教皇庁の教養が高い一員として、401の教会の正典をギリシア語からラテン語に翻訳してきた。それにはニカイア、コンスタンティノープル、カルケドン、サルディスの公会議による正典、教皇シリキウスによるアナスタシウス2世にあてたものなど、5世紀の集などを含む。これらの翻訳集は西洋において大きな権威をもち、まだ教会の管理を導いてすらいた。ディオニュシウスは初等数学に関する論文も書いている。 616年、ディオニュシウスのコンプトゥスの続きを著した著者は彼を「ローマ市で最も教養の深い修道院長」と表現している。ベーダ・ヴェネラビリスは彼にアッバス(大修道院長)の尊称を与えた。ただし、それはどのような修道僧(特に年長で尊敬を受けている僧)でも与えられるもので、必ずしもディオニュシウスがかつて修道院長を務めていたことを示すものではない。 (ja)
  • ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus、470年頃 - 544年頃)は、ローマの神学者、教会法学者である。小ディオニュシウスとも。東ローマ帝国の小スキタイ地方(現ブルガリアのドブロジャ)出身。彼は小スキタイの主要都市、トミス(現コンスタンツァ)に集中しているスキタイの修道僧共同体の一員であった。 教皇ゲラシウス1世が没した頃(496年)から彼はローマで過ごし、ローマ教皇庁の教養が高い一員として、401の教会の正典をギリシア語からラテン語に翻訳してきた。それにはニカイア、コンスタンティノープル、カルケドン、サルディスの公会議による正典、教皇シリキウスによるアナスタシウス2世にあてたものなど、5世紀の集などを含む。これらの翻訳集は西洋において大きな権威をもち、まだ教会の管理を導いてすらいた。ディオニュシウスは初等数学に関する論文も書いている。 616年、ディオニュシウスのコンプトゥスの続きを著した著者は彼を「ローマ市で最も教養の深い修道院長」と表現している。ベーダ・ヴェネラビリスは彼にアッバス(大修道院長)の尊称を与えた。ただし、それはどのような修道僧(特に年長で尊敬を受けている僧)でも与えられるもので、必ずしもディオニュシウスがかつて修道院長を務めていたことを示すものではない。 (ja)
rdfs:label
  • ディオニュシウス・エクシグウス (ja)
  • ディオニュシウス・エクシグウス (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of