ジェイムズ・フィッシャー・ロビンソン(英: James Fisher Robinson、1800年10月4日 - 1882年10月31日)は、19世紀アメリカ合衆国の政治家、弁護士であり、第22代ケンタッキー州知事を務めた。これは先代知事ベリア・マゴフィンが任期途中で知事を辞任したことに伴うものであり、残り任期約1年間を務めた。マゴフィンはアメリカ連合国に同調的な者であり、ケンタッキー州議会両院で連邦主義者(北軍支持者)が絶対多数を占めるようになった1861年の選挙以後は、次第に実行力を失っていた。マゴフィンは後継者を自分で選ぶことを条件に知事を辞任した。マゴフィンはロビンソンを選んだ。 ロビンソンは政治的にアメリカ合衆国からの脱退にも、奴隷制度の廃止にも反対していた。北部の同調者だったが、中道だと考え、逃亡奴隷法や黒人兵の徴兵に反対した。州上院議員としてクリッテンデン妥協を支持し、南北戦争に反対した。州知事としては、エイブラハム・リンカーン大統領の奴隷解放宣言に反対したことで、リンカーン内閣から批判を受けた。知事退任後は政界から遠くなり、1882年10月31日に、ジョージタウンで死んだ。