1967年のJSL(第3回日本サッカーリーグ)は1967年4月9日から11月26日まで行われた。優勝は東洋工業蹴球部であった。 東洋工業にとっては1965年、1966年に続いての優勝であり、次の1968年にも優勝して4連覇を達成することになる。前期を1位で折り返した東洋は、後期の一時期三菱重工にその座を明け渡したが、第12節、11月12日に東京・国立競技場で行われた直接対決を3-1で制して首位に返り咲き、そのまま譲らなかった。 既に日本代表のエースとして活躍していた釜本邦茂がこの年からヤンマーでプレーするようになった。前年最下位(8位)に終わったヤンマーは、釜本も含めて11人もの新人選手を加え、後期開幕前にはJSL初の外国人選手となる日系ブラジル人のネルソン吉村も補強し、順位を5位に上げた。釜本は1年目から得点ランキング2位となる14ゴールを挙げたが、得点王に輝いたのは15ゴールを挙げた古河電工の木村武夫だった。木村は当時20歳で、これはJSLの最年少得点王記録として最後まで破られなかった。 この年は観客数も大幅に伸び、総観客動員数は33万9850人(前年は20万1700人)、1試合平均は5.759人(前年は3.601人)だった。ヤンマー絡みの試合に釜本目当ての観客が多く集まったことが最大の要因とされる。

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  • 1967年のJSL(第3回日本サッカーリーグ)は1967年4月9日から11月26日まで行われた。優勝は東洋工業蹴球部であった。 東洋工業にとっては1965年、1966年に続いての優勝であり、次の1968年にも優勝して4連覇を達成することになる。前期を1位で折り返した東洋は、後期の一時期三菱重工にその座を明け渡したが、第12節、11月12日に東京・国立競技場で行われた直接対決を3-1で制して首位に返り咲き、そのまま譲らなかった。 既に日本代表のエースとして活躍していた釜本邦茂がこの年からヤンマーでプレーするようになった。前年最下位(8位)に終わったヤンマーは、釜本も含めて11人もの新人選手を加え、後期開幕前にはJSL初の外国人選手となる日系ブラジル人のネルソン吉村も補強し、順位を5位に上げた。釜本は1年目から得点ランキング2位となる14ゴールを挙げたが、得点王に輝いたのは15ゴールを挙げた古河電工の木村武夫だった。木村は当時20歳で、これはJSLの最年少得点王記録として最後まで破られなかった。 この年は観客数も大幅に伸び、総観客動員数は33万9850人(前年は20万1700人)、1試合平均は5.759人(前年は3.601人)だった。ヤンマー絡みの試合に釜本目当ての観客が多く集まったことが最大の要因とされる。 (ja)
  • 1967年のJSL(第3回日本サッカーリーグ)は1967年4月9日から11月26日まで行われた。優勝は東洋工業蹴球部であった。 東洋工業にとっては1965年、1966年に続いての優勝であり、次の1968年にも優勝して4連覇を達成することになる。前期を1位で折り返した東洋は、後期の一時期三菱重工にその座を明け渡したが、第12節、11月12日に東京・国立競技場で行われた直接対決を3-1で制して首位に返り咲き、そのまま譲らなかった。 既に日本代表のエースとして活躍していた釜本邦茂がこの年からヤンマーでプレーするようになった。前年最下位(8位)に終わったヤンマーは、釜本も含めて11人もの新人選手を加え、後期開幕前にはJSL初の外国人選手となる日系ブラジル人のネルソン吉村も補強し、順位を5位に上げた。釜本は1年目から得点ランキング2位となる14ゴールを挙げたが、得点王に輝いたのは15ゴールを挙げた古河電工の木村武夫だった。木村は当時20歳で、これはJSLの最年少得点王記録として最後まで破られなかった。 この年は観客数も大幅に伸び、総観客動員数は33万9850人(前年は20万1700人)、1試合平均は5.759人(前年は3.601人)だった。ヤンマー絡みの試合に釜本目当ての観客が多く集まったことが最大の要因とされる。 (ja)
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  • 1967年のJSL(第3回日本サッカーリーグ)は1967年4月9日から11月26日まで行われた。優勝は東洋工業蹴球部であった。 東洋工業にとっては1965年、1966年に続いての優勝であり、次の1968年にも優勝して4連覇を達成することになる。前期を1位で折り返した東洋は、後期の一時期三菱重工にその座を明け渡したが、第12節、11月12日に東京・国立競技場で行われた直接対決を3-1で制して首位に返り咲き、そのまま譲らなかった。 既に日本代表のエースとして活躍していた釜本邦茂がこの年からヤンマーでプレーするようになった。前年最下位(8位)に終わったヤンマーは、釜本も含めて11人もの新人選手を加え、後期開幕前にはJSL初の外国人選手となる日系ブラジル人のネルソン吉村も補強し、順位を5位に上げた。釜本は1年目から得点ランキング2位となる14ゴールを挙げたが、得点王に輝いたのは15ゴールを挙げた古河電工の木村武夫だった。木村は当時20歳で、これはJSLの最年少得点王記録として最後まで破られなかった。 この年は観客数も大幅に伸び、総観客動員数は33万9850人(前年は20万1700人)、1試合平均は5.759人(前年は3.601人)だった。ヤンマー絡みの試合に釜本目当ての観客が多く集まったことが最大の要因とされる。 (ja)
  • 1967年のJSL(第3回日本サッカーリーグ)は1967年4月9日から11月26日まで行われた。優勝は東洋工業蹴球部であった。 東洋工業にとっては1965年、1966年に続いての優勝であり、次の1968年にも優勝して4連覇を達成することになる。前期を1位で折り返した東洋は、後期の一時期三菱重工にその座を明け渡したが、第12節、11月12日に東京・国立競技場で行われた直接対決を3-1で制して首位に返り咲き、そのまま譲らなかった。 既に日本代表のエースとして活躍していた釜本邦茂がこの年からヤンマーでプレーするようになった。前年最下位(8位)に終わったヤンマーは、釜本も含めて11人もの新人選手を加え、後期開幕前にはJSL初の外国人選手となる日系ブラジル人のネルソン吉村も補強し、順位を5位に上げた。釜本は1年目から得点ランキング2位となる14ゴールを挙げたが、得点王に輝いたのは15ゴールを挙げた古河電工の木村武夫だった。木村は当時20歳で、これはJSLの最年少得点王記録として最後まで破られなかった。 この年は観客数も大幅に伸び、総観客動員数は33万9850人(前年は20万1700人)、1試合平均は5.759人(前年は3.601人)だった。ヤンマー絡みの試合に釜本目当ての観客が多く集まったことが最大の要因とされる。 (ja)
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