金丸 筑前守(かねまる ちくぜんのかみ、生年不詳 - 元亀2年8月8日(1571年8月28日)?)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。 武田信虎・信玄に仕え、軍中使番十二人のうちの一人。200騎の侍大将。武田信玄のを務めたという。躑躅崎の城を預かり、伊那攻め、佐久攻略戦に参加。 諱は『甲斐国志』では「虎義」としているが、確実な史料からは確認されない。虎義の「虎」の字は信虎より賜ったものと思われる。 『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の父は(若狭守)とされるが、両人は活動時期の重なる同世代の人物であることが指摘される。忠経(若狭守)は『甲斐国志』によれば天文5年(1536年)9月5日に死去したとしているが、それ以降の活動も見られることから誤りであることが指摘され、忠経・筑前守の父に相当する「金丸若狭守」が存在した可能性が考えられている。 『甲陽軍鑑』によれば、筑前守は武田家の使番を務めたという。永禄9年(1566年)8月晦日に、信玄側近の市川家光から甲府城下南部・一条小山に立地する一蓮寺内の軸屋敷跡の安堵を命じられている。永禄10年(1567年)3月6日には武田家臣・真田幸綱(一徳斎幸隆)が上野国の白井城(群馬県渋川市)を攻略した際に、箕輪城(群馬県高崎市)に在番していた春日虎綱(高坂昌信)との談合を命じられている。

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  • 金丸 筑前守(かねまる ちくぜんのかみ、生年不詳 - 元亀2年8月8日(1571年8月28日)?)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。 武田信虎・信玄に仕え、軍中使番十二人のうちの一人。200騎の侍大将。武田信玄のを務めたという。躑躅崎の城を預かり、伊那攻め、佐久攻略戦に参加。 諱は『甲斐国志』では「虎義」としているが、確実な史料からは確認されない。虎義の「虎」の字は信虎より賜ったものと思われる。 『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の父は(若狭守)とされるが、両人は活動時期の重なる同世代の人物であることが指摘される。忠経(若狭守)は『甲斐国志』によれば天文5年(1536年)9月5日に死去したとしているが、それ以降の活動も見られることから誤りであることが指摘され、忠経・筑前守の父に相当する「金丸若狭守」が存在した可能性が考えられている。 『甲陽軍鑑』によれば、筑前守は武田家の使番を務めたという。永禄9年(1566年)8月晦日に、信玄側近の市川家光から甲府城下南部・一条小山に立地する一蓮寺内の軸屋敷跡の安堵を命じられている。永禄10年(1567年)3月6日には武田家臣・真田幸綱(一徳斎幸隆)が上野国の白井城(群馬県渋川市)を攻略した際に、箕輪城(群馬県高崎市)に在番していた春日虎綱(高坂昌信)との談合を命じられている。 元亀2年(1571年)8月8日に死去。墓所は山梨県南アルプス市の。法名は『甲斐国志』所収の長盛院に伝わる位牌によれば、「長盛院玉叟浄金庵」とされる。『甲斐国志』では筑前守の没年を元亀3年(1572年)で、法名を「長守院大叟照公禅定門院」とする異説を紹介しこちらを妥当としているが、確定されていない。 『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の子息には金丸平三郎・土屋昌続・金丸平八郎・秋山昌詮・金丸助六郎・土屋昌恒・・秋山源三郎がいる。 (ja)
  • 金丸 筑前守(かねまる ちくぜんのかみ、生年不詳 - 元亀2年8月8日(1571年8月28日)?)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。 武田信虎・信玄に仕え、軍中使番十二人のうちの一人。200騎の侍大将。武田信玄のを務めたという。躑躅崎の城を預かり、伊那攻め、佐久攻略戦に参加。 諱は『甲斐国志』では「虎義」としているが、確実な史料からは確認されない。虎義の「虎」の字は信虎より賜ったものと思われる。 『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の父は(若狭守)とされるが、両人は活動時期の重なる同世代の人物であることが指摘される。忠経(若狭守)は『甲斐国志』によれば天文5年(1536年)9月5日に死去したとしているが、それ以降の活動も見られることから誤りであることが指摘され、忠経・筑前守の父に相当する「金丸若狭守」が存在した可能性が考えられている。 『甲陽軍鑑』によれば、筑前守は武田家の使番を務めたという。永禄9年(1566年)8月晦日に、信玄側近の市川家光から甲府城下南部・一条小山に立地する一蓮寺内の軸屋敷跡の安堵を命じられている。永禄10年(1567年)3月6日には武田家臣・真田幸綱(一徳斎幸隆)が上野国の白井城(群馬県渋川市)を攻略した際に、箕輪城(群馬県高崎市)に在番していた春日虎綱(高坂昌信)との談合を命じられている。 元亀2年(1571年)8月8日に死去。墓所は山梨県南アルプス市の。法名は『甲斐国志』所収の長盛院に伝わる位牌によれば、「長盛院玉叟浄金庵」とされる。『甲斐国志』では筑前守の没年を元亀3年(1572年)で、法名を「長守院大叟照公禅定門院」とする異説を紹介しこちらを妥当としているが、確定されていない。 『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の子息には金丸平三郎・土屋昌続・金丸平八郎・秋山昌詮・金丸助六郎・土屋昌恒・・秋山源三郎がいる。 (ja)
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  • 金丸 筑前守(かねまる ちくぜんのかみ、生年不詳 - 元亀2年8月8日(1571年8月28日)?)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。 武田信虎・信玄に仕え、軍中使番十二人のうちの一人。200騎の侍大将。武田信玄のを務めたという。躑躅崎の城を預かり、伊那攻め、佐久攻略戦に参加。 諱は『甲斐国志』では「虎義」としているが、確実な史料からは確認されない。虎義の「虎」の字は信虎より賜ったものと思われる。 『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の父は(若狭守)とされるが、両人は活動時期の重なる同世代の人物であることが指摘される。忠経(若狭守)は『甲斐国志』によれば天文5年(1536年)9月5日に死去したとしているが、それ以降の活動も見られることから誤りであることが指摘され、忠経・筑前守の父に相当する「金丸若狭守」が存在した可能性が考えられている。 『甲陽軍鑑』によれば、筑前守は武田家の使番を務めたという。永禄9年(1566年)8月晦日に、信玄側近の市川家光から甲府城下南部・一条小山に立地する一蓮寺内の軸屋敷跡の安堵を命じられている。永禄10年(1567年)3月6日には武田家臣・真田幸綱(一徳斎幸隆)が上野国の白井城(群馬県渋川市)を攻略した際に、箕輪城(群馬県高崎市)に在番していた春日虎綱(高坂昌信)との談合を命じられている。 (ja)
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