紀元前221年、秦国は最後に斉国を滅ぼして、中国史上最初の統一帝国、秦朝を打ち建てた。秦朝最初の皇帝始皇帝は丞相の李斯の建議に基づき、地方の支配を分封制による諸侯を通じての間接的統治から全国一律に単一の郡県を置いて中央集権的に支配する郡県制を導入、全国を36郡に分けた。五嶺の南、を支配した領土には、南海・桂林及び象州の3郡(秦朝滅亡後に南越国となった地域)を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の内モンゴル自治区包頭市南西)を置いた。領土を広げるごとに、恒山・済北・膠東・河内・廬江・衡山などの郡を次々に置いた。 秦朝首都の咸陽とその付近の関中平原は内史が直接的に管理し、それぞれの郡には、民政を司る郡守、軍事・治安を司る、監察を司るの三職と、郡守の下に補佐するを置いた。