龕附天正金鉱(がんつきてんしょうきんこう)は、静岡県伊豆市土肥にある天正年間に掘られた金の手掘り坑道。 天正5年(1577年)に開発された金鉱で、代官彦坂元成により運営されていたが、慶長年間江戸幕府金山奉行大久保長安の支配となり、慶長11年(1606年)に最盛期を迎える。 坑道は、山柿の大木が坑口にあり柿木間歩といわれた。全長100m、最奥部まで60m。松明をつけて作業していたので、逆さ階段など換気を考えた工夫が見られる。また、最奥に龕(女陰形金脈龕)が祀られている。これは、坑夫が最奥に金銀が多量に埋蔵する鉱脈を発見し、これ以上掘り進むと祟りがあると恐れ、龕を彫り山の神として祀ったところであり、全国的にここだけである。考古学者により龕附天正金鉱と名づけられた。また、日本大学の発掘調査で金の精錬炉跡も発見された。 土肥温泉の温泉街に位置し、伊豆市指定史跡に指定されている。坑道の外側に鉱脈の体験掘りができる場所がある。

Property Value
dbo:abstract
  • 龕附天正金鉱(がんつきてんしょうきんこう)は、静岡県伊豆市土肥にある天正年間に掘られた金の手掘り坑道。 天正5年(1577年)に開発された金鉱で、代官彦坂元成により運営されていたが、慶長年間江戸幕府金山奉行大久保長安の支配となり、慶長11年(1606年)に最盛期を迎える。 坑道は、山柿の大木が坑口にあり柿木間歩といわれた。全長100m、最奥部まで60m。松明をつけて作業していたので、逆さ階段など換気を考えた工夫が見られる。また、最奥に龕(女陰形金脈龕)が祀られている。これは、坑夫が最奥に金銀が多量に埋蔵する鉱脈を発見し、これ以上掘り進むと祟りがあると恐れ、龕を彫り山の神として祀ったところであり、全国的にここだけである。考古学者により龕附天正金鉱と名づけられた。また、日本大学の発掘調査で金の精錬炉跡も発見された。 土肥温泉の温泉街に位置し、伊豆市指定史跡に指定されている。坑道の外側に鉱脈の体験掘りができる場所がある。 (ja)
  • 龕附天正金鉱(がんつきてんしょうきんこう)は、静岡県伊豆市土肥にある天正年間に掘られた金の手掘り坑道。 天正5年(1577年)に開発された金鉱で、代官彦坂元成により運営されていたが、慶長年間江戸幕府金山奉行大久保長安の支配となり、慶長11年(1606年)に最盛期を迎える。 坑道は、山柿の大木が坑口にあり柿木間歩といわれた。全長100m、最奥部まで60m。松明をつけて作業していたので、逆さ階段など換気を考えた工夫が見られる。また、最奥に龕(女陰形金脈龕)が祀られている。これは、坑夫が最奥に金銀が多量に埋蔵する鉱脈を発見し、これ以上掘り進むと祟りがあると恐れ、龕を彫り山の神として祀ったところであり、全国的にここだけである。考古学者により龕附天正金鉱と名づけられた。また、日本大学の発掘調査で金の精錬炉跡も発見された。 土肥温泉の温泉街に位置し、伊豆市指定史跡に指定されている。坑道の外側に鉱脈の体験掘りができる場所がある。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 1896445 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 809 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 71664036 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-en:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
georss:point
  • 34.90586111111111 138.79002777777777
rdf:type
rdfs:comment
  • 龕附天正金鉱(がんつきてんしょうきんこう)は、静岡県伊豆市土肥にある天正年間に掘られた金の手掘り坑道。 天正5年(1577年)に開発された金鉱で、代官彦坂元成により運営されていたが、慶長年間江戸幕府金山奉行大久保長安の支配となり、慶長11年(1606年)に最盛期を迎える。 坑道は、山柿の大木が坑口にあり柿木間歩といわれた。全長100m、最奥部まで60m。松明をつけて作業していたので、逆さ階段など換気を考えた工夫が見られる。また、最奥に龕(女陰形金脈龕)が祀られている。これは、坑夫が最奥に金銀が多量に埋蔵する鉱脈を発見し、これ以上掘り進むと祟りがあると恐れ、龕を彫り山の神として祀ったところであり、全国的にここだけである。考古学者により龕附天正金鉱と名づけられた。また、日本大学の発掘調査で金の精錬炉跡も発見された。 土肥温泉の温泉街に位置し、伊豆市指定史跡に指定されている。坑道の外側に鉱脈の体験掘りができる場所がある。 (ja)
  • 龕附天正金鉱(がんつきてんしょうきんこう)は、静岡県伊豆市土肥にある天正年間に掘られた金の手掘り坑道。 天正5年(1577年)に開発された金鉱で、代官彦坂元成により運営されていたが、慶長年間江戸幕府金山奉行大久保長安の支配となり、慶長11年(1606年)に最盛期を迎える。 坑道は、山柿の大木が坑口にあり柿木間歩といわれた。全長100m、最奥部まで60m。松明をつけて作業していたので、逆さ階段など換気を考えた工夫が見られる。また、最奥に龕(女陰形金脈龕)が祀られている。これは、坑夫が最奥に金銀が多量に埋蔵する鉱脈を発見し、これ以上掘り進むと祟りがあると恐れ、龕を彫り山の神として祀ったところであり、全国的にここだけである。考古学者により龕附天正金鉱と名づけられた。また、日本大学の発掘調査で金の精錬炉跡も発見された。 土肥温泉の温泉街に位置し、伊豆市指定史跡に指定されている。坑道の外側に鉱脈の体験掘りができる場所がある。 (ja)
rdfs:label
  • 龕附天正金鉱 (ja)
  • 龕附天正金鉱 (ja)
geo:geometry
  • POINT(138.79002380371 34.905860900879)
geo:lat
  • 34.905861 (xsd:float)
geo:long
  • 138.790024 (xsd:float)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of