黒井 忠寄(くろい ただより、延享4年(1747年) - 寛政11年11月7日(1799年12月3日))は、江戸時代中期の米沢藩の藩士、和算家。通称は半四郎、号は幽量。家格は五十騎組。石高は30石、後に80石。 米沢藩の事業として最上川流域における初めての用水路工事となる北条郷新堰(黒井堰)や玉川から白川へ灌漑のための通水を行う飯豊山穴堰の普請を立案し、推進させた。 なお、米沢藩出身で明治・大正期の海軍軍人、黒井悌次郎は傍系である。