須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 昭和9年(1934年)1月7日)は、日本の医師、医学者、医学博士、旧制金沢医科大学(現:金沢大学医学部)学長、生化学者。幼名は健蔵、後に上京してから憲三と名乗る。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立1923年、栄養部長にを登用。日本の脚気史によれば、臨時脚気病調査会委員を務めている。 「栄養」の提唱者でもあるである。「森鷗外、などの支持を得て「栄養」に改めた」との説もある。