霧中山仏教遺址(むちゅうざんぶっきょういし)は、四川省成都市大邑県の城南地方にあり、中国後漢時代のものであると判定した。2002年12月27日に四川省省級第6次の古文物保護対象に選ばれた。後漢永平十六年(西暦74年)に、インドの高僧である迦葉摩騰と竺法蘭がここに、河南省洛陽にある白馬寺よりわずか6年遅れで、中国の第二の仏教の寺である普照寺を建てた。中国明朝の宣宗時代に、開化寺と改名して今に至る。霧中山は、中国の一番古い仏教のお寺だけではなく、仏教の貝葉経を南伝する際、初めての場所でもある。明朝のころに、霧中山仏教のもっとも栄えたが、明朝末期から清朝初期にかけて、霧中山の百以上の寺院や庵が戦乱で破壊された。1992年に四川政府が開化寺を含め、一部の寺を修復した。この寺は、峨眉山の高僧である普観大師が住持を勤め、果章大師が監院を勤めた。その後、再び果章大師が住持を勤めた。 霧中山の元の名前は、大光明山と呼ばれ、または、天誠山或いは霧山とも呼ばれた。詩人である陸游は、ここに来たことがあり、その際、『青霞嶂、碧玉潭皆霧中佳處。』と言う言葉を残した。

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  • 霧中山仏教遺址(むちゅうざんぶっきょういし)は、四川省成都市大邑県の城南地方にあり、中国後漢時代のものであると判定した。2002年12月27日に四川省省級第6次の古文物保護対象に選ばれた。後漢永平十六年(西暦74年)に、インドの高僧である迦葉摩騰と竺法蘭がここに、河南省洛陽にある白馬寺よりわずか6年遅れで、中国の第二の仏教の寺である普照寺を建てた。中国明朝の宣宗時代に、開化寺と改名して今に至る。霧中山は、中国の一番古い仏教のお寺だけではなく、仏教の貝葉経を南伝する際、初めての場所でもある。明朝のころに、霧中山仏教のもっとも栄えたが、明朝末期から清朝初期にかけて、霧中山の百以上の寺院や庵が戦乱で破壊された。1992年に四川政府が開化寺を含め、一部の寺を修復した。この寺は、峨眉山の高僧である普観大師が住持を勤め、果章大師が監院を勤めた。その後、再び果章大師が住持を勤めた。 霧中山の元の名前は、大光明山と呼ばれ、または、天誠山或いは霧山とも呼ばれた。詩人である陸游は、ここに来たことがあり、その際、『青霞嶂、碧玉潭皆霧中佳處。』と言う言葉を残した。 (ja)
  • 霧中山仏教遺址(むちゅうざんぶっきょういし)は、四川省成都市大邑県の城南地方にあり、中国後漢時代のものであると判定した。2002年12月27日に四川省省級第6次の古文物保護対象に選ばれた。後漢永平十六年(西暦74年)に、インドの高僧である迦葉摩騰と竺法蘭がここに、河南省洛陽にある白馬寺よりわずか6年遅れで、中国の第二の仏教の寺である普照寺を建てた。中国明朝の宣宗時代に、開化寺と改名して今に至る。霧中山は、中国の一番古い仏教のお寺だけではなく、仏教の貝葉経を南伝する際、初めての場所でもある。明朝のころに、霧中山仏教のもっとも栄えたが、明朝末期から清朝初期にかけて、霧中山の百以上の寺院や庵が戦乱で破壊された。1992年に四川政府が開化寺を含め、一部の寺を修復した。この寺は、峨眉山の高僧である普観大師が住持を勤め、果章大師が監院を勤めた。その後、再び果章大師が住持を勤めた。 霧中山の元の名前は、大光明山と呼ばれ、または、天誠山或いは霧山とも呼ばれた。詩人である陸游は、ここに来たことがあり、その際、『青霞嶂、碧玉潭皆霧中佳處。』と言う言葉を残した。 (ja)
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  • 霧中山仏教遺址(むちゅうざんぶっきょういし)は、四川省成都市大邑県の城南地方にあり、中国後漢時代のものであると判定した。2002年12月27日に四川省省級第6次の古文物保護対象に選ばれた。後漢永平十六年(西暦74年)に、インドの高僧である迦葉摩騰と竺法蘭がここに、河南省洛陽にある白馬寺よりわずか6年遅れで、中国の第二の仏教の寺である普照寺を建てた。中国明朝の宣宗時代に、開化寺と改名して今に至る。霧中山は、中国の一番古い仏教のお寺だけではなく、仏教の貝葉経を南伝する際、初めての場所でもある。明朝のころに、霧中山仏教のもっとも栄えたが、明朝末期から清朝初期にかけて、霧中山の百以上の寺院や庵が戦乱で破壊された。1992年に四川政府が開化寺を含め、一部の寺を修復した。この寺は、峨眉山の高僧である普観大師が住持を勤め、果章大師が監院を勤めた。その後、再び果章大師が住持を勤めた。 霧中山の元の名前は、大光明山と呼ばれ、または、天誠山或いは霧山とも呼ばれた。詩人である陸游は、ここに来たことがあり、その際、『青霞嶂、碧玉潭皆霧中佳處。』と言う言葉を残した。 (ja)
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  • 霧中山佛教遺址 (ja)
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