衣非茂記(いび しげき、1832年〈天保3年〉 - 1865年12月12日〈慶応元年10月25日〉)は、江戸時代後期(幕末)の福岡藩士(1180石)。黒田氏の家臣。 梶原十郎景貫の三男として誕生。衣斐茂左衛門直章の養子となる。弘化2年(1845年)8月に14歳にて家督を継ぐ。屋吉、三郎右衛門と称し、後に茂記と名乗る。大組。嘉永4年(1851年)異国船防御として長崎に赴き、たびたび長崎に赴く。安政6年(1859年)小姓頭に進むとともに、牛馬牧を兼ねる。尊皇の大義を明らかにし、攘夷の止めることはできないと論じる。文久2年(1862年)世子黒田長知の京都参朝においては随行する。征長解兵の時には90余騎を従え小倉(現在の北九州市小倉北区)に向かい、副将松平茂昭に会談を申し入れる。征長解兵を建部武彦と進めるが、佐幕派の京都聞役と対立。後に藩論が佐幕派に傾き、幽閉、安国寺で切腹。藩の役人が自邸に来た際、妻の梅子は引き止める。忘れ物を取りにやらせた隙に自邸を出て安国寺(福岡市中央区天神)に向かう。享年34。明治35年(1902年)11月8日、贈従四位。墓碑は建部武彦とともに、安国寺本堂左手にある。

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  • 衣非茂記(いび しげき、1832年〈天保3年〉 - 1865年12月12日〈慶応元年10月25日〉)は、江戸時代後期(幕末)の福岡藩士(1180石)。黒田氏の家臣。 梶原十郎景貫の三男として誕生。衣斐茂左衛門直章の養子となる。弘化2年(1845年)8月に14歳にて家督を継ぐ。屋吉、三郎右衛門と称し、後に茂記と名乗る。大組。嘉永4年(1851年)異国船防御として長崎に赴き、たびたび長崎に赴く。安政6年(1859年)小姓頭に進むとともに、牛馬牧を兼ねる。尊皇の大義を明らかにし、攘夷の止めることはできないと論じる。文久2年(1862年)世子黒田長知の京都参朝においては随行する。征長解兵の時には90余騎を従え小倉(現在の北九州市小倉北区)に向かい、副将松平茂昭に会談を申し入れる。征長解兵を建部武彦と進めるが、佐幕派の京都聞役と対立。後に藩論が佐幕派に傾き、幽閉、安国寺で切腹。藩の役人が自邸に来た際、妻の梅子は引き止める。忘れ物を取りにやらせた隙に自邸を出て安国寺(福岡市中央区天神)に向かう。享年34。明治35年(1902年)11月8日、贈従四位。墓碑は建部武彦とともに、安国寺本堂左手にある。 (ja)
  • 衣非茂記(いび しげき、1832年〈天保3年〉 - 1865年12月12日〈慶応元年10月25日〉)は、江戸時代後期(幕末)の福岡藩士(1180石)。黒田氏の家臣。 梶原十郎景貫の三男として誕生。衣斐茂左衛門直章の養子となる。弘化2年(1845年)8月に14歳にて家督を継ぐ。屋吉、三郎右衛門と称し、後に茂記と名乗る。大組。嘉永4年(1851年)異国船防御として長崎に赴き、たびたび長崎に赴く。安政6年(1859年)小姓頭に進むとともに、牛馬牧を兼ねる。尊皇の大義を明らかにし、攘夷の止めることはできないと論じる。文久2年(1862年)世子黒田長知の京都参朝においては随行する。征長解兵の時には90余騎を従え小倉(現在の北九州市小倉北区)に向かい、副将松平茂昭に会談を申し入れる。征長解兵を建部武彦と進めるが、佐幕派の京都聞役と対立。後に藩論が佐幕派に傾き、幽閉、安国寺で切腹。藩の役人が自邸に来た際、妻の梅子は引き止める。忘れ物を取りにやらせた隙に自邸を出て安国寺(福岡市中央区天神)に向かう。享年34。明治35年(1902年)11月8日、贈従四位。墓碑は建部武彦とともに、安国寺本堂左手にある。 (ja)
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