葛西 宗清(かさい むねきよ) 1. * 葛西氏5代或いは6代当主。本項以下にて詳述。 2. * 葛西氏13代当主とされる。葛西政信と対立。本項以下にて詳述。 5代(6代) 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清宗(かさい きよむね)とも呼ばれる。 「仙台葛西系図」では時清の孫で、の子とされるが、「盛岡葛西系図」の清信と同一人物であるとすれば、時清の息子となる。息子に貞清(清貞、清定とも)。 葛西清重の息子とされることもあるが、代数的な矛盾が生じるほか、が紺戸淳の論考に基づいて、「宗」が北条時宗に由来することや、息子の貞清の「貞」が北条貞時から受けたとする見解を示していることから、恐らくは誤りとみられる。 建武2年(1335年)、北畠顕家の遠征軍に貞清とともに従軍した。 13代 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、戦国時代の陸奥国の戦国大名。 伊達成宗の次男として生まれる。の養子となって主となった。一説には宗清が葛西家の第13代当主とも言われており、そのために当主の座をめぐって葛西政信と抗争を続けた。永正8年(1511年)には桃生郡に侵攻してを破るなどして勢威を拡大した。子がいたかは不明だが、次男の晴家は稗貫氏を継いだとされる。

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  • 葛西 宗清(かさい むねきよ) 1. * 葛西氏5代或いは6代当主。本項以下にて詳述。 2. * 葛西氏13代当主とされる。葛西政信と対立。本項以下にて詳述。 5代(6代) 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清宗(かさい きよむね)とも呼ばれる。 「仙台葛西系図」では時清の孫で、の子とされるが、「盛岡葛西系図」の清信と同一人物であるとすれば、時清の息子となる。息子に貞清(清貞、清定とも)。 葛西清重の息子とされることもあるが、代数的な矛盾が生じるほか、が紺戸淳の論考に基づいて、「宗」が北条時宗に由来することや、息子の貞清の「貞」が北条貞時から受けたとする見解を示していることから、恐らくは誤りとみられる。 建武2年(1335年)、北畠顕家の遠征軍に貞清とともに従軍した。 13代 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、戦国時代の陸奥国の戦国大名。 伊達成宗の次男として生まれる。の養子となって主となった。一説には宗清が葛西家の第13代当主とも言われており、そのために当主の座をめぐって葛西政信と抗争を続けた。永正8年(1511年)には桃生郡に侵攻してを破るなどして勢威を拡大した。子がいたかは不明だが、次男の晴家は稗貫氏を継いだとされる。 没年は不明であるが、第14代当主に政信の三男・晴重がなっていることを考えると、政信との抗争には敗れたものと思われる。 (ja)
  • 葛西 宗清(かさい むねきよ) 1. * 葛西氏5代或いは6代当主。本項以下にて詳述。 2. * 葛西氏13代当主とされる。葛西政信と対立。本項以下にて詳述。 5代(6代) 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清宗(かさい きよむね)とも呼ばれる。 「仙台葛西系図」では時清の孫で、の子とされるが、「盛岡葛西系図」の清信と同一人物であるとすれば、時清の息子となる。息子に貞清(清貞、清定とも)。 葛西清重の息子とされることもあるが、代数的な矛盾が生じるほか、が紺戸淳の論考に基づいて、「宗」が北条時宗に由来することや、息子の貞清の「貞」が北条貞時から受けたとする見解を示していることから、恐らくは誤りとみられる。 建武2年(1335年)、北畠顕家の遠征軍に貞清とともに従軍した。 13代 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、戦国時代の陸奥国の戦国大名。 伊達成宗の次男として生まれる。の養子となって主となった。一説には宗清が葛西家の第13代当主とも言われており、そのために当主の座をめぐって葛西政信と抗争を続けた。永正8年(1511年)には桃生郡に侵攻してを破るなどして勢威を拡大した。子がいたかは不明だが、次男の晴家は稗貫氏を継いだとされる。 没年は不明であるが、第14代当主に政信の三男・晴重がなっていることを考えると、政信との抗争には敗れたものと思われる。 (ja)
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  • 葛西 宗清(かさい むねきよ) 1. * 葛西氏5代或いは6代当主。本項以下にて詳述。 2. * 葛西氏13代当主とされる。葛西政信と対立。本項以下にて詳述。 5代(6代) 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清宗(かさい きよむね)とも呼ばれる。 「仙台葛西系図」では時清の孫で、の子とされるが、「盛岡葛西系図」の清信と同一人物であるとすれば、時清の息子となる。息子に貞清(清貞、清定とも)。 葛西清重の息子とされることもあるが、代数的な矛盾が生じるほか、が紺戸淳の論考に基づいて、「宗」が北条時宗に由来することや、息子の貞清の「貞」が北条貞時から受けたとする見解を示していることから、恐らくは誤りとみられる。 建武2年(1335年)、北畠顕家の遠征軍に貞清とともに従軍した。 13代 葛西 宗清(かさい むねきよ)は、戦国時代の陸奥国の戦国大名。 伊達成宗の次男として生まれる。の養子となって主となった。一説には宗清が葛西家の第13代当主とも言われており、そのために当主の座をめぐって葛西政信と抗争を続けた。永正8年(1511年)には桃生郡に侵攻してを破るなどして勢威を拡大した。子がいたかは不明だが、次男の晴家は稗貫氏を継いだとされる。 (ja)
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