菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年4月7日 - 1972年5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校入学、下折壁高等小学校卒業、岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。 1945年空襲激化により東京から岩手県大更村(現八幡平市大更)に疎開。太平洋戦争終戦後にも同村に住み、新たな学校制度への移行に伴う岩手県内の小中学校の校歌の制定に関わり、岩手県内では千厩・奥玉・折壁・津谷川等の各小学校、奥玉・摺沢・猿沢・藤沢・折壁等の各中学校併せて29校の校歌を作詞している。 1950年知勇一家は東京に戻り『ぬはり』の発行活動に励み、1958年には古希記念として『菊池知勇全歌集』が出版されている。

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  • 菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年4月7日 - 1972年5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校入学、下折壁高等小学校卒業、岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。 1945年空襲激化により東京から岩手県大更村(現八幡平市大更)に疎開。太平洋戦争終戦後にも同村に住み、新たな学校制度への移行に伴う岩手県内の小中学校の校歌の制定に関わり、岩手県内では千厩・奥玉・折壁・津谷川等の各小学校、奥玉・摺沢・猿沢・藤沢・折壁等の各中学校併せて29校の校歌を作詞している。 1950年知勇一家は東京に戻り『ぬはり』の発行活動に励み、1958年には古希記念として『菊池知勇全歌集』が出版されている。 (ja)
  • 菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年4月7日 - 1972年5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校入学、下折壁高等小学校卒業、岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。 1945年空襲激化により東京から岩手県大更村(現八幡平市大更)に疎開。太平洋戦争終戦後にも同村に住み、新たな学校制度への移行に伴う岩手県内の小中学校の校歌の制定に関わり、岩手県内では千厩・奥玉・折壁・津谷川等の各小学校、奥玉・摺沢・猿沢・藤沢・折壁等の各中学校併せて29校の校歌を作詞している。 1950年知勇一家は東京に戻り『ぬはり』の発行活動に励み、1958年には古希記念として『菊池知勇全歌集』が出版されている。 (ja)
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  • 菊池知勇 (ja)
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