翔凰丸(しょうおうまる)は幕末・明治維新期に薩摩藩が保有した軍艦(武装汽船)である。 1964年(元治元年4月)に、薩摩藩が長崎で買い入れたイギリス汽船、ロチウス号が前身だという。 1868年1月19日(慶応3年12月25日)の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。その際に旧幕府海軍の咸臨丸、回天丸の追撃を受け、伊豆子浦(現在の静岡県南伊豆町)、紀州九鬼(現在の三重県尾鷲市)での修繕を経て、兵庫港までの逃走には成功したものの、かなりの損傷を受けた。このとき大砲を用いたが、1発ずつ撃ったのみで4門とも故障したという。ただし2発が回天丸に命中した。 1868年1月28日(慶応4年=明治元年1月4日)の阿波沖海戦で、僚艦の春日丸に曳航されながら開陽丸との交戦に巻き込まれ、撃沈などの危険があることから井島付近で自焼した。焼かれた翔凰丸は旧幕府海軍の開陽丸に発見されたが、その艦長だった榎本武揚らは薩摩の飛脚船と見誤ったという。 書籍にはたびたび 『翔鳳丸』と記される。

Property Value
dbo:abstract
  • 翔凰丸(しょうおうまる)は幕末・明治維新期に薩摩藩が保有した軍艦(武装汽船)である。 1964年(元治元年4月)に、薩摩藩が長崎で買い入れたイギリス汽船、ロチウス号が前身だという。 1868年1月19日(慶応3年12月25日)の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。その際に旧幕府海軍の咸臨丸、回天丸の追撃を受け、伊豆子浦(現在の静岡県南伊豆町)、紀州九鬼(現在の三重県尾鷲市)での修繕を経て、兵庫港までの逃走には成功したものの、かなりの損傷を受けた。このとき大砲を用いたが、1発ずつ撃ったのみで4門とも故障したという。ただし2発が回天丸に命中した。 1868年1月28日(慶応4年=明治元年1月4日)の阿波沖海戦で、僚艦の春日丸に曳航されながら開陽丸との交戦に巻き込まれ、撃沈などの危険があることから井島付近で自焼した。焼かれた翔凰丸は旧幕府海軍の開陽丸に発見されたが、その艦長だった榎本武揚らは薩摩の飛脚船と見誤ったという。 書籍にはたびたび 『翔鳳丸』と記される。 (ja)
  • 翔凰丸(しょうおうまる)は幕末・明治維新期に薩摩藩が保有した軍艦(武装汽船)である。 1964年(元治元年4月)に、薩摩藩が長崎で買い入れたイギリス汽船、ロチウス号が前身だという。 1868年1月19日(慶応3年12月25日)の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。その際に旧幕府海軍の咸臨丸、回天丸の追撃を受け、伊豆子浦(現在の静岡県南伊豆町)、紀州九鬼(現在の三重県尾鷲市)での修繕を経て、兵庫港までの逃走には成功したものの、かなりの損傷を受けた。このとき大砲を用いたが、1発ずつ撃ったのみで4門とも故障したという。ただし2発が回天丸に命中した。 1868年1月28日(慶応4年=明治元年1月4日)の阿波沖海戦で、僚艦の春日丸に曳航されながら開陽丸との交戦に巻き込まれ、撃沈などの危険があることから井島付近で自焼した。焼かれた翔凰丸は旧幕府海軍の開陽丸に発見されたが、その艦長だった榎本武揚らは薩摩の飛脚船と見誤ったという。 書籍にはたびたび 『翔鳳丸』と記される。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 3599087 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1299 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 87237013 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 翔凰丸(しょうおうまる)は幕末・明治維新期に薩摩藩が保有した軍艦(武装汽船)である。 1964年(元治元年4月)に、薩摩藩が長崎で買い入れたイギリス汽船、ロチウス号が前身だという。 1868年1月19日(慶応3年12月25日)の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。その際に旧幕府海軍の咸臨丸、回天丸の追撃を受け、伊豆子浦(現在の静岡県南伊豆町)、紀州九鬼(現在の三重県尾鷲市)での修繕を経て、兵庫港までの逃走には成功したものの、かなりの損傷を受けた。このとき大砲を用いたが、1発ずつ撃ったのみで4門とも故障したという。ただし2発が回天丸に命中した。 1868年1月28日(慶応4年=明治元年1月4日)の阿波沖海戦で、僚艦の春日丸に曳航されながら開陽丸との交戦に巻き込まれ、撃沈などの危険があることから井島付近で自焼した。焼かれた翔凰丸は旧幕府海軍の開陽丸に発見されたが、その艦長だった榎本武揚らは薩摩の飛脚船と見誤ったという。 書籍にはたびたび 『翔鳳丸』と記される。 (ja)
  • 翔凰丸(しょうおうまる)は幕末・明治維新期に薩摩藩が保有した軍艦(武装汽船)である。 1964年(元治元年4月)に、薩摩藩が長崎で買い入れたイギリス汽船、ロチウス号が前身だという。 1868年1月19日(慶応3年12月25日)の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。その際に旧幕府海軍の咸臨丸、回天丸の追撃を受け、伊豆子浦(現在の静岡県南伊豆町)、紀州九鬼(現在の三重県尾鷲市)での修繕を経て、兵庫港までの逃走には成功したものの、かなりの損傷を受けた。このとき大砲を用いたが、1発ずつ撃ったのみで4門とも故障したという。ただし2発が回天丸に命中した。 1868年1月28日(慶応4年=明治元年1月4日)の阿波沖海戦で、僚艦の春日丸に曳航されながら開陽丸との交戦に巻き込まれ、撃沈などの危険があることから井島付近で自焼した。焼かれた翔凰丸は旧幕府海軍の開陽丸に発見されたが、その艦長だった榎本武揚らは薩摩の飛脚船と見誤ったという。 書籍にはたびたび 『翔鳳丸』と記される。 (ja)
rdfs:label
  • 翔凰丸 (ja)
  • 翔凰丸 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of