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- 笑福亭 圓歌(しょうふくてい えんか、1882年11月14日 - 1952年3月31日)は、上方噺家。歌舞伎役者の2代目中村鴈治郎の義父。本名∶沖本(おきもと) 房吉(ふさきち)。 大阪市住吉区の生まれ。幼くして両親を失う。1893年、2代目桂萬光の門下となり萬蝶を名乗り、12歳で初高座。その後、歌舞伎役者の初代中村霞仙の養子となり高座を離れるが中村家と離縁され、19歳から23歳にかけて東京で清元を修行。帰阪後の1906年前後に素人落語に加わり、琥遊三、文香を名乗り素人、玄人ともつかぬ活動していたが。1907年、京都に居付いて藤原年史(後の3代目笑福亭圓笑)に入門し、藤原好史を名乗り、1909年に笑福亭圓歌となる。42歳の時、凋落する上方落語に見切りを付け、京都市中京区河原町三条付近で小鳥屋を営むが、後に5代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人となり、幾度か高座にも上がっている。慰問のために海軍を訪れ。その縁で遠洋航海に乗り込んだこともある。 派手で陽気な芸風で、好史時代は盆廻しや布団廻しで人気を得る。圓歌となってからは、江州音頭、尾張万歳などの音曲や、『ひやかし』『のりやの看板』『理屈按摩』などの噺を得意とした。高座の終わりには、必ず大津絵節の『楠公』などを踊ったという。どちらかというと、色物(音曲師)としての性格が強い噺家だった。 娘婿が畑違いの2代目中村鴈治郎だったため「成駒屋さんから父さんと言われ死に」などと川柳に歌われた。 墓所は京都市中京区裏寺町の宝蔵寺。法名は鶯空圓歌禪定門位。 なお、現在東京には三遊亭圓歌の名跡があるが、直接の関係はない。 (ja)
- 笑福亭 圓歌(しょうふくてい えんか、1882年11月14日 - 1952年3月31日)は、上方噺家。歌舞伎役者の2代目中村鴈治郎の義父。本名∶沖本(おきもと) 房吉(ふさきち)。 大阪市住吉区の生まれ。幼くして両親を失う。1893年、2代目桂萬光の門下となり萬蝶を名乗り、12歳で初高座。その後、歌舞伎役者の初代中村霞仙の養子となり高座を離れるが中村家と離縁され、19歳から23歳にかけて東京で清元を修行。帰阪後の1906年前後に素人落語に加わり、琥遊三、文香を名乗り素人、玄人ともつかぬ活動していたが。1907年、京都に居付いて藤原年史(後の3代目笑福亭圓笑)に入門し、藤原好史を名乗り、1909年に笑福亭圓歌となる。42歳の時、凋落する上方落語に見切りを付け、京都市中京区河原町三条付近で小鳥屋を営むが、後に5代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人となり、幾度か高座にも上がっている。慰問のために海軍を訪れ。その縁で遠洋航海に乗り込んだこともある。 派手で陽気な芸風で、好史時代は盆廻しや布団廻しで人気を得る。圓歌となってからは、江州音頭、尾張万歳などの音曲や、『ひやかし』『のりやの看板』『理屈按摩』などの噺を得意とした。高座の終わりには、必ず大津絵節の『楠公』などを踊ったという。どちらかというと、色物(音曲師)としての性格が強い噺家だった。 娘婿が畑違いの2代目中村鴈治郎だったため「成駒屋さんから父さんと言われ死に」などと川柳に歌われた。 墓所は京都市中京区裏寺町の宝蔵寺。法名は鶯空圓歌禪定門位。 なお、現在東京には三遊亭圓歌の名跡があるが、直接の関係はない。 (ja)
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- 笑福亭 圓歌(しょうふくてい えんか、1882年11月14日 - 1952年3月31日)は、上方噺家。歌舞伎役者の2代目中村鴈治郎の義父。本名∶沖本(おきもと) 房吉(ふさきち)。 大阪市住吉区の生まれ。幼くして両親を失う。1893年、2代目桂萬光の門下となり萬蝶を名乗り、12歳で初高座。その後、歌舞伎役者の初代中村霞仙の養子となり高座を離れるが中村家と離縁され、19歳から23歳にかけて東京で清元を修行。帰阪後の1906年前後に素人落語に加わり、琥遊三、文香を名乗り素人、玄人ともつかぬ活動していたが。1907年、京都に居付いて藤原年史(後の3代目笑福亭圓笑)に入門し、藤原好史を名乗り、1909年に笑福亭圓歌となる。42歳の時、凋落する上方落語に見切りを付け、京都市中京区河原町三条付近で小鳥屋を営むが、後に5代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人となり、幾度か高座にも上がっている。慰問のために海軍を訪れ。その縁で遠洋航海に乗り込んだこともある。 派手で陽気な芸風で、好史時代は盆廻しや布団廻しで人気を得る。圓歌となってからは、江州音頭、尾張万歳などの音曲や、『ひやかし』『のりやの看板』『理屈按摩』などの噺を得意とした。高座の終わりには、必ず大津絵節の『楠公』などを踊ったという。どちらかというと、色物(音曲師)としての性格が強い噺家だった。 (ja)
- 笑福亭 圓歌(しょうふくてい えんか、1882年11月14日 - 1952年3月31日)は、上方噺家。歌舞伎役者の2代目中村鴈治郎の義父。本名∶沖本(おきもと) 房吉(ふさきち)。 大阪市住吉区の生まれ。幼くして両親を失う。1893年、2代目桂萬光の門下となり萬蝶を名乗り、12歳で初高座。その後、歌舞伎役者の初代中村霞仙の養子となり高座を離れるが中村家と離縁され、19歳から23歳にかけて東京で清元を修行。帰阪後の1906年前後に素人落語に加わり、琥遊三、文香を名乗り素人、玄人ともつかぬ活動していたが。1907年、京都に居付いて藤原年史(後の3代目笑福亭圓笑)に入門し、藤原好史を名乗り、1909年に笑福亭圓歌となる。42歳の時、凋落する上方落語に見切りを付け、京都市中京区河原町三条付近で小鳥屋を営むが、後に5代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人となり、幾度か高座にも上がっている。慰問のために海軍を訪れ。その縁で遠洋航海に乗り込んだこともある。 派手で陽気な芸風で、好史時代は盆廻しや布団廻しで人気を得る。圓歌となってからは、江州音頭、尾張万歳などの音曲や、『ひやかし』『のりやの看板』『理屈按摩』などの噺を得意とした。高座の終わりには、必ず大津絵節の『楠公』などを踊ったという。どちらかというと、色物(音曲師)としての性格が強い噺家だった。 (ja)
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