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- 王 積薪(おう せきしん、生没年不詳)は、中国唐代中期の囲碁の名手で、国手と呼ばれた。「囲碁十訣」の作者、及び鎮神頭(一子解二征)の手筋の発見者とも言われる。 唐の玄宗の頃に農家に生まれる。早くに父母を亡くしたために山に入って柴刈りで働いたが、当時山中に多くの仏教寺院があり、ここで僧侶達が碁を楽しんでいたのを見て碁を覚え、やがて僧侶達も上回る腕前になる。その後旅に出て腕を磨き、これが長安に伝わって、玄宗に招かれて、棋待詔(碁によって仕える待詔)として仕えた。外出時は常に竹筒に入れた紙製の碁盤と碁石を携えて、人々と対局したという。ある時金谷園で馮汪と対局して2勝4敗となるが、次に3連勝して5勝4敗となる。これが「金谷園九局図」として有名となった。 安史の乱で玄宗が蜀に逃れた時に王積薪も随行し、山中の路上で宿した民家の老婦と嫁から「人間の敵の無い」碁の技を授かったという伝説が「集異記」に記されている。 王積薪は碁の精髄を記したという「碁経」を著したとされるが、現存していない。また後の棋書にも多く紹介されている「囲碁十訣」の作者とも言われるが、確かではない。 12世紀に出版された棋書『忘憂清楽集』には、王積薪が発見した「一子解二征」と呼ばれる妙手が記載されている。 黒★の手が、白からの2つのシチョウを1手で防いでいる。 (ja)
- 王 積薪(おう せきしん、生没年不詳)は、中国唐代中期の囲碁の名手で、国手と呼ばれた。「囲碁十訣」の作者、及び鎮神頭(一子解二征)の手筋の発見者とも言われる。 唐の玄宗の頃に農家に生まれる。早くに父母を亡くしたために山に入って柴刈りで働いたが、当時山中に多くの仏教寺院があり、ここで僧侶達が碁を楽しんでいたのを見て碁を覚え、やがて僧侶達も上回る腕前になる。その後旅に出て腕を磨き、これが長安に伝わって、玄宗に招かれて、棋待詔(碁によって仕える待詔)として仕えた。外出時は常に竹筒に入れた紙製の碁盤と碁石を携えて、人々と対局したという。ある時金谷園で馮汪と対局して2勝4敗となるが、次に3連勝して5勝4敗となる。これが「金谷園九局図」として有名となった。 安史の乱で玄宗が蜀に逃れた時に王積薪も随行し、山中の路上で宿した民家の老婦と嫁から「人間の敵の無い」碁の技を授かったという伝説が「集異記」に記されている。 王積薪は碁の精髄を記したという「碁経」を著したとされるが、現存していない。また後の棋書にも多く紹介されている「囲碁十訣」の作者とも言われるが、確かではない。 12世紀に出版された棋書『忘憂清楽集』には、王積薪が発見した「一子解二征」と呼ばれる妙手が記載されている。 黒★の手が、白からの2つのシチョウを1手で防いでいる。 (ja)
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- 王 積薪(おう せきしん、生没年不詳)は、中国唐代中期の囲碁の名手で、国手と呼ばれた。「囲碁十訣」の作者、及び鎮神頭(一子解二征)の手筋の発見者とも言われる。 唐の玄宗の頃に農家に生まれる。早くに父母を亡くしたために山に入って柴刈りで働いたが、当時山中に多くの仏教寺院があり、ここで僧侶達が碁を楽しんでいたのを見て碁を覚え、やがて僧侶達も上回る腕前になる。その後旅に出て腕を磨き、これが長安に伝わって、玄宗に招かれて、棋待詔(碁によって仕える待詔)として仕えた。外出時は常に竹筒に入れた紙製の碁盤と碁石を携えて、人々と対局したという。ある時金谷園で馮汪と対局して2勝4敗となるが、次に3連勝して5勝4敗となる。これが「金谷園九局図」として有名となった。 安史の乱で玄宗が蜀に逃れた時に王積薪も随行し、山中の路上で宿した民家の老婦と嫁から「人間の敵の無い」碁の技を授かったという伝説が「集異記」に記されている。 王積薪は碁の精髄を記したという「碁経」を著したとされるが、現存していない。また後の棋書にも多く紹介されている「囲碁十訣」の作者とも言われるが、確かではない。 12世紀に出版された棋書『忘憂清楽集』には、王積薪が発見した「一子解二征」と呼ばれる妙手が記載されている。 黒★の手が、白からの2つのシチョウを1手で防いでいる。 (ja)
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