源翁心昭(げんのう しんしょう、あるいは玄翁、嘉暦4年2月19日(1329年3月20日)- 応永7年1月7日(1400年2月2日))は、南北朝時代の曹洞宗の僧。越後国の出身。号は空外。 初め越後国国上寺で出家したが、18歳で曹洞宗に改宗し總持寺の峨山韶碩に入門した。 その後伯耆国に退休寺を開創し、出羽国の永泉寺・下野国の泉渓寺などの住持となった。1371年には結城氏の招きにより下総国に安隠寺を開創した。1375年に陸奥国会津に赴き、真言宗の慈眼寺を曹洞宗に改宗して示現寺と改めている。 分骨墓が茨城県結城市安穏寺に、本墓は福島県喜多方市示現寺にある。

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  • 源翁心昭(げんのう しんしょう、あるいは玄翁、嘉暦4年2月19日(1329年3月20日)- 応永7年1月7日(1400年2月2日))は、南北朝時代の曹洞宗の僧。越後国の出身。号は空外。 初め越後国国上寺で出家したが、18歳で曹洞宗に改宗し總持寺の峨山韶碩に入門した。 その後伯耆国に退休寺を開創し、出羽国の永泉寺・下野国の泉渓寺などの住持となった。1371年には結城氏の招きにより下総国に安隠寺を開創した。1375年に陸奥国会津に赴き、真言宗の慈眼寺を曹洞宗に改宗して示現寺と改めている。 分骨墓が茨城県結城市安穏寺に、本墓は福島県喜多方市示現寺にある。 (ja)
  • 源翁心昭(げんのう しんしょう、あるいは玄翁、嘉暦4年2月19日(1329年3月20日)- 応永7年1月7日(1400年2月2日))は、南北朝時代の曹洞宗の僧。越後国の出身。号は空外。 初め越後国国上寺で出家したが、18歳で曹洞宗に改宗し總持寺の峨山韶碩に入門した。 その後伯耆国に退休寺を開創し、出羽国の永泉寺・下野国の泉渓寺などの住持となった。1371年には結城氏の招きにより下総国に安隠寺を開創した。1375年に陸奥国会津に赴き、真言宗の慈眼寺を曹洞宗に改宗して示現寺と改めている。 分骨墓が茨城県結城市安穏寺に、本墓は福島県喜多方市示現寺にある。 (ja)
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  • 源翁心昭 (ja)
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