永井 花子(ながい はなこ、1907年頃 - 1982年3月17日)は、日本の女子競泳選手。日本女子競泳の黎明期を代表する選手。 1925年(大正14年)の日本選手権水泳競技大会で京都武徳会所属として50m自由形と100m自由形で優勝している。1927年(昭和2年)の1月には大阪毎日新聞の運動課へと入社し、記者として働いた。同年の日本選手権では再び50m自由形で優勝している。このときの所属は浜寺水練学校。 1982年3月17日、死去。74歳だった。