柳 毅(りゅうき、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。公孫度の武将。 初平元年(190年)、遼東一帯や異民族にまで威勢をふるい、また中原の混乱を知った公孫度は側近の官吏である柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位をはかるべきだ」と語った。また『魏書』によると「讖書(予言書)は孫登が天子になるというが、私の姓は公孫で字は升済であり、升とは登にあたる(孫登とは公孫度を指す)」と語ったとされる。 公孫度は軍を派遣して、遼東から海を南下した青州の東莱郡諸県を攻略し、そこに営州および刺史を新設した。その際の柳毅の動向は不明だが、建安十年(205年)頃はその地に駐屯しており、青州沿岸部に派遣された張遼に敗れている。

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  • 柳 毅(りゅうき、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。公孫度の武将。 初平元年(190年)、遼東一帯や異民族にまで威勢をふるい、また中原の混乱を知った公孫度は側近の官吏である柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位をはかるべきだ」と語った。また『魏書』によると「讖書(予言書)は孫登が天子になるというが、私の姓は公孫で字は升済であり、升とは登にあたる(孫登とは公孫度を指す)」と語ったとされる。 公孫度は軍を派遣して、遼東から海を南下した青州の東莱郡諸県を攻略し、そこに営州および刺史を新設した。その際の柳毅の動向は不明だが、建安十年(205年)頃はその地に駐屯しており、青州沿岸部に派遣された張遼に敗れている。 (ja)
  • 柳 毅(りゅうき、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。公孫度の武将。 初平元年(190年)、遼東一帯や異民族にまで威勢をふるい、また中原の混乱を知った公孫度は側近の官吏である柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位をはかるべきだ」と語った。また『魏書』によると「讖書(予言書)は孫登が天子になるというが、私の姓は公孫で字は升済であり、升とは登にあたる(孫登とは公孫度を指す)」と語ったとされる。 公孫度は軍を派遣して、遼東から海を南下した青州の東莱郡諸県を攻略し、そこに営州および刺史を新設した。その際の柳毅の動向は不明だが、建安十年(205年)頃はその地に駐屯しており、青州沿岸部に派遣された張遼に敗れている。 (ja)
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  • 柳 毅(りゅうき、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。公孫度の武将。 初平元年(190年)、遼東一帯や異民族にまで威勢をふるい、また中原の混乱を知った公孫度は側近の官吏である柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位をはかるべきだ」と語った。また『魏書』によると「讖書(予言書)は孫登が天子になるというが、私の姓は公孫で字は升済であり、升とは登にあたる(孫登とは公孫度を指す)」と語ったとされる。 公孫度は軍を派遣して、遼東から海を南下した青州の東莱郡諸県を攻略し、そこに営州および刺史を新設した。その際の柳毅の動向は不明だが、建安十年(205年)頃はその地に駐屯しており、青州沿岸部に派遣された張遼に敗れている。 (ja)
  • 柳 毅(りゅうき、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。公孫度の武将。 初平元年(190年)、遼東一帯や異民族にまで威勢をふるい、また中原の混乱を知った公孫度は側近の官吏である柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位をはかるべきだ」と語った。また『魏書』によると「讖書(予言書)は孫登が天子になるというが、私の姓は公孫で字は升済であり、升とは登にあたる(孫登とは公孫度を指す)」と語ったとされる。 公孫度は軍を派遣して、遼東から海を南下した青州の東莱郡諸県を攻略し、そこに営州および刺史を新設した。その際の柳毅の動向は不明だが、建安十年(205年)頃はその地に駐屯しており、青州沿岸部に派遣された張遼に敗れている。 (ja)
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  • 柳毅 (ja)
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