東 直政(ひがし なおまさ、生年不詳 - 永禄2年8月16日(1559年9月17日))は戦国時代の武将。肥後相良氏家臣。主。官位は三河守。 永禄2年(1559年)、人吉奉行である丸目頼美との仲が険悪となる。このとき直政は頼美の縁者であった為か、主君である相良義陽の母・内城に人吉城へと呼ばれ、その仲裁を頼まれる。直政は当初、頼美を説得、或いは成敗せよとの命が下されるのを覚悟したが、その何れでもなかった為、頼美の屋敷に出向き同心する事を約束した。同年5月、長兄が義陽と内城に取り入り頼美の屋敷を攻撃した為、頼美は湯前城へと逃れてくる。直政は当初、義陽に敵対してまで同心する心算はなかったが、自身の後見人である上田兵部に諭され共に湯前城に籠城する。 同年8月15日の夜になると、直政はを攻め取るべく弟のに兵を与えて出陣させる。蔵人は伏兵していた多良木衆を打ち破り城を攻めたが、落城には至らなかった。翌日、日向国椎葉の那須兵部太夫、那須周防らの後援を得て獺野原にて相良勢と激突、当初は多良木衆を押し崩し優勢であったが、犬童頼安の率いる人吉衆に押され混戦となり、頼美は日向国へ逃亡、直政は蔵人及び180余名の者ともども戦死した。

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  • 東 直政(ひがし なおまさ、生年不詳 - 永禄2年8月16日(1559年9月17日))は戦国時代の武将。肥後相良氏家臣。主。官位は三河守。 永禄2年(1559年)、人吉奉行である丸目頼美との仲が険悪となる。このとき直政は頼美の縁者であった為か、主君である相良義陽の母・内城に人吉城へと呼ばれ、その仲裁を頼まれる。直政は当初、頼美を説得、或いは成敗せよとの命が下されるのを覚悟したが、その何れでもなかった為、頼美の屋敷に出向き同心する事を約束した。同年5月、長兄が義陽と内城に取り入り頼美の屋敷を攻撃した為、頼美は湯前城へと逃れてくる。直政は当初、義陽に敵対してまで同心する心算はなかったが、自身の後見人である上田兵部に諭され共に湯前城に籠城する。 同年8月15日の夜になると、直政はを攻め取るべく弟のに兵を与えて出陣させる。蔵人は伏兵していた多良木衆を打ち破り城を攻めたが、落城には至らなかった。翌日、日向国椎葉の那須兵部太夫、那須周防らの後援を得て獺野原にて相良勢と激突、当初は多良木衆を押し崩し優勢であったが、犬童頼安の率いる人吉衆に押され混戦となり、頼美は日向国へ逃亡、直政は蔵人及び180余名の者ともども戦死した。 (ja)
  • 東 直政(ひがし なおまさ、生年不詳 - 永禄2年8月16日(1559年9月17日))は戦国時代の武将。肥後相良氏家臣。主。官位は三河守。 永禄2年(1559年)、人吉奉行である丸目頼美との仲が険悪となる。このとき直政は頼美の縁者であった為か、主君である相良義陽の母・内城に人吉城へと呼ばれ、その仲裁を頼まれる。直政は当初、頼美を説得、或いは成敗せよとの命が下されるのを覚悟したが、その何れでもなかった為、頼美の屋敷に出向き同心する事を約束した。同年5月、長兄が義陽と内城に取り入り頼美の屋敷を攻撃した為、頼美は湯前城へと逃れてくる。直政は当初、義陽に敵対してまで同心する心算はなかったが、自身の後見人である上田兵部に諭され共に湯前城に籠城する。 同年8月15日の夜になると、直政はを攻め取るべく弟のに兵を与えて出陣させる。蔵人は伏兵していた多良木衆を打ち破り城を攻めたが、落城には至らなかった。翌日、日向国椎葉の那須兵部太夫、那須周防らの後援を得て獺野原にて相良勢と激突、当初は多良木衆を押し崩し優勢であったが、犬童頼安の率いる人吉衆に押され混戦となり、頼美は日向国へ逃亡、直政は蔵人及び180余名の者ともども戦死した。 (ja)
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  • 東直政 (ja)
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