李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4月14日)は、朝鮮(大韓帝国)に生まれ、日本および大韓民国で活動した歴史学者・社会学者、バスケットボール選手・指導者。 早稲田大学に留学、日本における黎明期の大学バスケットボール選手となり、スポーツ理論・競技技術の普及や、スポーツ組織の結成・運営に大きな足跡を残した。戦後の韓国においてもスポーツ界の重鎮として活動、国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた。学生バスケットボールの日韓対抗戦である李相佰杯に名を残している。また、学者としてはソウル大学校教授を務め、歴史学・社会学に業績を残している。号は想白(サンベク/상백、発音は本名と同じ)、百無一斎。日本のスポーツ史では、バスケットボール指導書『指導籠球の理論と実際』(1930年)をはじめとしたスポーツに関する論考を李想白(り・そうはく/イ・サンベク)名義で発表したことから、この表記で言及されることもある。