本多 副紹(ほんだ すけつぐ、享保4年7月11日(1719年8月26日) - 安永9年3月22日(1780年4月26日))は、福井藩家老。越前府中本多家(本多内蔵助家)第5代当主。 父は本多長教。正室は公卿の娘。継室は公卿の娘。子は、、本多副充。幼名万之助。通称内蔵助。初名、富紹(とみつぐ)。 享保4年(1719年)7月11日、福井藩家老本多長教の長男として府中に生まれる。享保13年(1728年)父の死去により10歳で家督と2万石の知行を相続。幼少の為、一族の本多修理恒久が後見を務めた。 元文2年(1737年)7月、称念寺で行われた新田義貞400回忌に藩老として列席する。元文4年(1739年)綾小路俊宗の娘と結婚。翌年正室が死去。寛保元年(1741年)萩原兼武の娘と再婚。宝暦10年(1760年)名を富紹から副紹に改める(同年に藩主の仙之助が元服して松平重富と称し、この偏諱を避けたものと思われる)。宝暦12年(1762年)大火で府中の屋敷や藩邸が延焼。火消組を組織する。明和5年(1768年)福井城下で起こった打毀し騒動を取り静める。明和9年(1772年)に長男副脩、次男副邵が疱瘡で死去。安永9年(1780年)3月22日没。享年62。家督は三男副充が相続した。

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  • 本多 副紹(ほんだ すけつぐ、享保4年7月11日(1719年8月26日) - 安永9年3月22日(1780年4月26日))は、福井藩家老。越前府中本多家(本多内蔵助家)第5代当主。 父は本多長教。正室は公卿の娘。継室は公卿の娘。子は、、本多副充。幼名万之助。通称内蔵助。初名、富紹(とみつぐ)。 享保4年(1719年)7月11日、福井藩家老本多長教の長男として府中に生まれる。享保13年(1728年)父の死去により10歳で家督と2万石の知行を相続。幼少の為、一族の本多修理恒久が後見を務めた。 元文2年(1737年)7月、称念寺で行われた新田義貞400回忌に藩老として列席する。元文4年(1739年)綾小路俊宗の娘と結婚。翌年正室が死去。寛保元年(1741年)萩原兼武の娘と再婚。宝暦10年(1760年)名を富紹から副紹に改める(同年に藩主の仙之助が元服して松平重富と称し、この偏諱を避けたものと思われる)。宝暦12年(1762年)大火で府中の屋敷や藩邸が延焼。火消組を組織する。明和5年(1768年)福井城下で起こった打毀し騒動を取り静める。明和9年(1772年)に長男副脩、次男副邵が疱瘡で死去。安永9年(1780年)3月22日没。享年62。家督は三男副充が相続した。 (ja)
  • 本多 副紹(ほんだ すけつぐ、享保4年7月11日(1719年8月26日) - 安永9年3月22日(1780年4月26日))は、福井藩家老。越前府中本多家(本多内蔵助家)第5代当主。 父は本多長教。正室は公卿の娘。継室は公卿の娘。子は、、本多副充。幼名万之助。通称内蔵助。初名、富紹(とみつぐ)。 享保4年(1719年)7月11日、福井藩家老本多長教の長男として府中に生まれる。享保13年(1728年)父の死去により10歳で家督と2万石の知行を相続。幼少の為、一族の本多修理恒久が後見を務めた。 元文2年(1737年)7月、称念寺で行われた新田義貞400回忌に藩老として列席する。元文4年(1739年)綾小路俊宗の娘と結婚。翌年正室が死去。寛保元年(1741年)萩原兼武の娘と再婚。宝暦10年(1760年)名を富紹から副紹に改める(同年に藩主の仙之助が元服して松平重富と称し、この偏諱を避けたものと思われる)。宝暦12年(1762年)大火で府中の屋敷や藩邸が延焼。火消組を組織する。明和5年(1768年)福井城下で起こった打毀し騒動を取り静める。明和9年(1772年)に長男副脩、次男副邵が疱瘡で死去。安永9年(1780年)3月22日没。享年62。家督は三男副充が相続した。 (ja)
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  • 本多 副紹(ほんだ すけつぐ、享保4年7月11日(1719年8月26日) - 安永9年3月22日(1780年4月26日))は、福井藩家老。越前府中本多家(本多内蔵助家)第5代当主。 父は本多長教。正室は公卿の娘。継室は公卿の娘。子は、、本多副充。幼名万之助。通称内蔵助。初名、富紹(とみつぐ)。 享保4年(1719年)7月11日、福井藩家老本多長教の長男として府中に生まれる。享保13年(1728年)父の死去により10歳で家督と2万石の知行を相続。幼少の為、一族の本多修理恒久が後見を務めた。 元文2年(1737年)7月、称念寺で行われた新田義貞400回忌に藩老として列席する。元文4年(1739年)綾小路俊宗の娘と結婚。翌年正室が死去。寛保元年(1741年)萩原兼武の娘と再婚。宝暦10年(1760年)名を富紹から副紹に改める(同年に藩主の仙之助が元服して松平重富と称し、この偏諱を避けたものと思われる)。宝暦12年(1762年)大火で府中の屋敷や藩邸が延焼。火消組を組織する。明和5年(1768年)福井城下で起こった打毀し騒動を取り静める。明和9年(1772年)に長男副脩、次男副邵が疱瘡で死去。安永9年(1780年)3月22日没。享年62。家督は三男副充が相続した。 (ja)
  • 本多 副紹(ほんだ すけつぐ、享保4年7月11日(1719年8月26日) - 安永9年3月22日(1780年4月26日))は、福井藩家老。越前府中本多家(本多内蔵助家)第5代当主。 父は本多長教。正室は公卿の娘。継室は公卿の娘。子は、、本多副充。幼名万之助。通称内蔵助。初名、富紹(とみつぐ)。 享保4年(1719年)7月11日、福井藩家老本多長教の長男として府中に生まれる。享保13年(1728年)父の死去により10歳で家督と2万石の知行を相続。幼少の為、一族の本多修理恒久が後見を務めた。 元文2年(1737年)7月、称念寺で行われた新田義貞400回忌に藩老として列席する。元文4年(1739年)綾小路俊宗の娘と結婚。翌年正室が死去。寛保元年(1741年)萩原兼武の娘と再婚。宝暦10年(1760年)名を富紹から副紹に改める(同年に藩主の仙之助が元服して松平重富と称し、この偏諱を避けたものと思われる)。宝暦12年(1762年)大火で府中の屋敷や藩邸が延焼。火消組を組織する。明和5年(1768年)福井城下で起こった打毀し騒動を取り静める。明和9年(1772年)に長男副脩、次男副邵が疱瘡で死去。安永9年(1780年)3月22日没。享年62。家督は三男副充が相続した。 (ja)
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