日家(にけ、1258年(正嘉2年) - 1315年8月10日(正和4年7月10日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。号は寂日房(じゃくにちぼう)。小湊誕生寺開基。 日家の幼名は竹寿麿である。江戸中期の文献『本化別頭仏祖統記』には上総国夷隅郡興津の領主・重吉の第三子とされている。の子、長寿麿とともに1258年(正嘉2年)の生まれである。重貞は日家の長兄で、長寿麿とは叔父甥の間柄となる。1264年(文永元年)、日蓮は母(梅菊女)の危篤の知らせを受けて安房小湊に戻っていたが、興津の領主、佐久間重貞は、日蓮を自宅に招いて説法を聞き、日蓮に深く帰依するようになり、子息の長寿麿を弟子にした。竹寿麿も同時に弟子になった。長寿麿はのちに美作房(みまさかぼう)(にほ)と号し、竹寿麿は寂日房日家と号した。日保は佐久間重貞の持仏堂をあらためて法華堂〔妙覚寺〕とし、日家は日蓮の生家跡に誕生寺を開創した。日興が美作房日保へ宛てた手紙〔1284年(弘安7年)10/18 美作房御返事〕には、寂日房が身延に居たことが記されている。

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  • 日家(にけ、1258年(正嘉2年) - 1315年8月10日(正和4年7月10日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。号は寂日房(じゃくにちぼう)。小湊誕生寺開基。 日家の幼名は竹寿麿である。江戸中期の文献『本化別頭仏祖統記』には上総国夷隅郡興津の領主・重吉の第三子とされている。の子、長寿麿とともに1258年(正嘉2年)の生まれである。重貞は日家の長兄で、長寿麿とは叔父甥の間柄となる。1264年(文永元年)、日蓮は母(梅菊女)の危篤の知らせを受けて安房小湊に戻っていたが、興津の領主、佐久間重貞は、日蓮を自宅に招いて説法を聞き、日蓮に深く帰依するようになり、子息の長寿麿を弟子にした。竹寿麿も同時に弟子になった。長寿麿はのちに美作房(みまさかぼう)(にほ)と号し、竹寿麿は寂日房日家と号した。日保は佐久間重貞の持仏堂をあらためて法華堂〔妙覚寺〕とし、日家は日蓮の生家跡に誕生寺を開創した。日興が美作房日保へ宛てた手紙〔1284年(弘安7年)10/18 美作房御返事〕には、寂日房が身延に居たことが記されている。 (ja)
  • 日家(にけ、1258年(正嘉2年) - 1315年8月10日(正和4年7月10日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。号は寂日房(じゃくにちぼう)。小湊誕生寺開基。 日家の幼名は竹寿麿である。江戸中期の文献『本化別頭仏祖統記』には上総国夷隅郡興津の領主・重吉の第三子とされている。の子、長寿麿とともに1258年(正嘉2年)の生まれである。重貞は日家の長兄で、長寿麿とは叔父甥の間柄となる。1264年(文永元年)、日蓮は母(梅菊女)の危篤の知らせを受けて安房小湊に戻っていたが、興津の領主、佐久間重貞は、日蓮を自宅に招いて説法を聞き、日蓮に深く帰依するようになり、子息の長寿麿を弟子にした。竹寿麿も同時に弟子になった。長寿麿はのちに美作房(みまさかぼう)(にほ)と号し、竹寿麿は寂日房日家と号した。日保は佐久間重貞の持仏堂をあらためて法華堂〔妙覚寺〕とし、日家は日蓮の生家跡に誕生寺を開創した。日興が美作房日保へ宛てた手紙〔1284年(弘安7年)10/18 美作房御返事〕には、寂日房が身延に居たことが記されている。 (ja)
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