戸川 重明(とがわ しげあきら、寛永8年(1631年) - 正徳5年10月28日(1715年11月23日)は、江戸時代前期の幕臣(旗本)。通称は平三郎のち十兵衛、内蔵助など。雅号は道安。 の次男として生まれ、戸川安尤の養子となった。子に戸川安貞、戸川安通、他。 慶安4年(1651年)書院番士になる。のちにとなり布衣の着用を許される。 承応3年(1654年)東高梁川の氾濫の余波を受け領内の年貢米は50石という著しい損害を被った。 知行地の早島は、当時干潟の広がる海沿いの地であるため、収入の増微を目指し新田開発に勤しんだ。主なもので早島西方の早島新田(承応元年(1652年)・この地は後に西田村(岡山県倉敷市)となった)、早島南方の久々原新田(寛文3年(1663年))、葭野新田(寛文4年(1664年))、早島大新田(のちの前潟新田・寛文7年(1667年))などである。そのおかげで元禄2年(1689年)には、家臣への支給米を知行高の30%から35%に増やしている。 元禄8年(1695年)、江戸屋敷が類焼により焼失した。 元禄15年(1702年)3月に隠居し、跡目は子の安貞に継がせた。また、幕府より隠居料として米300俵を与えられる。 正徳5年(1715年)10月28日没。

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  • 戸川 重明(とがわ しげあきら、寛永8年(1631年) - 正徳5年10月28日(1715年11月23日)は、江戸時代前期の幕臣(旗本)。通称は平三郎のち十兵衛、内蔵助など。雅号は道安。 の次男として生まれ、戸川安尤の養子となった。子に戸川安貞、戸川安通、他。 慶安4年(1651年)書院番士になる。のちにとなり布衣の着用を許される。 承応3年(1654年)東高梁川の氾濫の余波を受け領内の年貢米は50石という著しい損害を被った。 知行地の早島は、当時干潟の広がる海沿いの地であるため、収入の増微を目指し新田開発に勤しんだ。主なもので早島西方の早島新田(承応元年(1652年)・この地は後に西田村(岡山県倉敷市)となった)、早島南方の久々原新田(寛文3年(1663年))、葭野新田(寛文4年(1664年))、早島大新田(のちの前潟新田・寛文7年(1667年))などである。そのおかげで元禄2年(1689年)には、家臣への支給米を知行高の30%から35%に増やしている。 元禄8年(1695年)、江戸屋敷が類焼により焼失した。 元禄15年(1702年)3月に隠居し、跡目は子の安貞に継がせた。また、幕府より隠居料として米300俵を与えられる。 正徳5年(1715年)10月28日没。 (ja)
  • 戸川 重明(とがわ しげあきら、寛永8年(1631年) - 正徳5年10月28日(1715年11月23日)は、江戸時代前期の幕臣(旗本)。通称は平三郎のち十兵衛、内蔵助など。雅号は道安。 の次男として生まれ、戸川安尤の養子となった。子に戸川安貞、戸川安通、他。 慶安4年(1651年)書院番士になる。のちにとなり布衣の着用を許される。 承応3年(1654年)東高梁川の氾濫の余波を受け領内の年貢米は50石という著しい損害を被った。 知行地の早島は、当時干潟の広がる海沿いの地であるため、収入の増微を目指し新田開発に勤しんだ。主なもので早島西方の早島新田(承応元年(1652年)・この地は後に西田村(岡山県倉敷市)となった)、早島南方の久々原新田(寛文3年(1663年))、葭野新田(寛文4年(1664年))、早島大新田(のちの前潟新田・寛文7年(1667年))などである。そのおかげで元禄2年(1689年)には、家臣への支給米を知行高の30%から35%に増やしている。 元禄8年(1695年)、江戸屋敷が類焼により焼失した。 元禄15年(1702年)3月に隠居し、跡目は子の安貞に継がせた。また、幕府より隠居料として米300俵を与えられる。 正徳5年(1715年)10月28日没。 (ja)
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  • 戸川重明 (ja)
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