Property |
Value |
dbo:abstract
|
- 慈音尼兼葭(じおんにけんか、1716年(享保元年) - 1778年(安永七年))は江戸時代の心学者。 慈音尼は近江国琵琶湖畔の吉田村の造り酒屋に生まれ、裕福な暮らしを送っていた。しかし彼女が8歳のときに母親と死別。その母の供養にやってきた坊主のお経がきっかけで、母が幸せになるならとお経を読むようになり、出家願望が沸く。 14歳のとき、縁談を断りを自分で断髪し、16歳に念願かなって出家。しかし親類には反対されていたため、家出同然の覚悟で京都西賀茂、楽師山の自秀のもとで修行。次に近江国沢山の曹洞宗、南泉桃谷と師を変え、最終的に石田梅岩の「石門心学」にめぐり合い、講座に通うようになり、弟子入りし、悟りを開く。 梅岩が病気で死去すると(慈音尼29歳)、江戸で布教活動を単身行う。10年ほど布教活動や講義を行ったが、京都に帰ると「兼葭反古集」を執筆する。これはのちに改名されて「道得問答」と呼ばれることになる。常に好奇心と向上心に溢れ、挑戦し続けた慈音尼だが、体が丈夫ではなかったため、志半ばにして琵琶湖畔へと帰郷し、その生涯を静かに閉じた。享年63だった。 (ja)
- 慈音尼兼葭(じおんにけんか、1716年(享保元年) - 1778年(安永七年))は江戸時代の心学者。 慈音尼は近江国琵琶湖畔の吉田村の造り酒屋に生まれ、裕福な暮らしを送っていた。しかし彼女が8歳のときに母親と死別。その母の供養にやってきた坊主のお経がきっかけで、母が幸せになるならとお経を読むようになり、出家願望が沸く。 14歳のとき、縁談を断りを自分で断髪し、16歳に念願かなって出家。しかし親類には反対されていたため、家出同然の覚悟で京都西賀茂、楽師山の自秀のもとで修行。次に近江国沢山の曹洞宗、南泉桃谷と師を変え、最終的に石田梅岩の「石門心学」にめぐり合い、講座に通うようになり、弟子入りし、悟りを開く。 梅岩が病気で死去すると(慈音尼29歳)、江戸で布教活動を単身行う。10年ほど布教活動や講義を行ったが、京都に帰ると「兼葭反古集」を執筆する。これはのちに改名されて「道得問答」と呼ばれることになる。常に好奇心と向上心に溢れ、挑戦し続けた慈音尼だが、体が丈夫ではなかったため、志半ばにして琵琶湖畔へと帰郷し、その生涯を静かに閉じた。享年63だった。 (ja)
|
dbo:wikiPageExternalLink
| |
dbo:wikiPageID
| |
dbo:wikiPageLength
|
- 813 (xsd:nonNegativeInteger)
|
dbo:wikiPageRevisionID
| |
dbo:wikiPageWikiLink
| |
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
| |
dct:subject
| |
rdfs:comment
|
- 慈音尼兼葭(じおんにけんか、1716年(享保元年) - 1778年(安永七年))は江戸時代の心学者。 慈音尼は近江国琵琶湖畔の吉田村の造り酒屋に生まれ、裕福な暮らしを送っていた。しかし彼女が8歳のときに母親と死別。その母の供養にやってきた坊主のお経がきっかけで、母が幸せになるならとお経を読むようになり、出家願望が沸く。 14歳のとき、縁談を断りを自分で断髪し、16歳に念願かなって出家。しかし親類には反対されていたため、家出同然の覚悟で京都西賀茂、楽師山の自秀のもとで修行。次に近江国沢山の曹洞宗、南泉桃谷と師を変え、最終的に石田梅岩の「石門心学」にめぐり合い、講座に通うようになり、弟子入りし、悟りを開く。 梅岩が病気で死去すると(慈音尼29歳)、江戸で布教活動を単身行う。10年ほど布教活動や講義を行ったが、京都に帰ると「兼葭反古集」を執筆する。これはのちに改名されて「道得問答」と呼ばれることになる。常に好奇心と向上心に溢れ、挑戦し続けた慈音尼だが、体が丈夫ではなかったため、志半ばにして琵琶湖畔へと帰郷し、その生涯を静かに閉じた。享年63だった。 (ja)
- 慈音尼兼葭(じおんにけんか、1716年(享保元年) - 1778年(安永七年))は江戸時代の心学者。 慈音尼は近江国琵琶湖畔の吉田村の造り酒屋に生まれ、裕福な暮らしを送っていた。しかし彼女が8歳のときに母親と死別。その母の供養にやってきた坊主のお経がきっかけで、母が幸せになるならとお経を読むようになり、出家願望が沸く。 14歳のとき、縁談を断りを自分で断髪し、16歳に念願かなって出家。しかし親類には反対されていたため、家出同然の覚悟で京都西賀茂、楽師山の自秀のもとで修行。次に近江国沢山の曹洞宗、南泉桃谷と師を変え、最終的に石田梅岩の「石門心学」にめぐり合い、講座に通うようになり、弟子入りし、悟りを開く。 梅岩が病気で死去すると(慈音尼29歳)、江戸で布教活動を単身行う。10年ほど布教活動や講義を行ったが、京都に帰ると「兼葭反古集」を執筆する。これはのちに改名されて「道得問答」と呼ばれることになる。常に好奇心と向上心に溢れ、挑戦し続けた慈音尼だが、体が丈夫ではなかったため、志半ばにして琵琶湖畔へと帰郷し、その生涯を静かに閉じた。享年63だった。 (ja)
|
rdfs:label
| |
prov:wasDerivedFrom
| |
foaf:isPrimaryTopicOf
| |
is dbo:wikiPageWikiLink
of | |
is owl:sameAs
of | |
is foaf:primaryTopic
of | |