志村 時恭(しむら ときもり、宝暦2年6月9日(1752年7月19日) - 享和2年5月24日(1802年6月23日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した仙台藩の儒学者。 陸奥国江刺郡(現岩手県)羽黒堂村中山の出身。兄は志村實因(五城)、弟は志村弘強(蒙庵)で、兄弟三人とも儒学者として江戸時代中期から後期にかけて活躍し、志村三珠樹(さんしゅじゅ)と称された。字(あざな)は仲敬(ちゅうけい)。別号に東嶼(とうしょ)、東洲。 医師で儒学者のに学び、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関である昌平黌でまで務め、寛政元年(1789年)仙台藩の大番士、次いでに任ぜられる。仙台藩の儒学者で、刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』の著者、芦東山とも交流があった。 享和2年(1802年)に51歳(数え年)で死去。 時恭(東嶼)の子で、儒学者の(別号:文翠)には子がいなかった。そこで、時敏(文翠)は、弘強(蒙庵)の長男で、形式的には實因(五城)の孫にあたる利安の子の(ときよし)を養子に迎え入れている。このため、志村三兄弟の血筋は、實因(五城)系と時恭(東嶼)系が存在するが、いずれも末弟の弘強(蒙庵)の血筋である。 来孫には、東京工業大学名誉教授の志村正道がいる。

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  • 志村 時恭(しむら ときもり、宝暦2年6月9日(1752年7月19日) - 享和2年5月24日(1802年6月23日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した仙台藩の儒学者。 陸奥国江刺郡(現岩手県)羽黒堂村中山の出身。兄は志村實因(五城)、弟は志村弘強(蒙庵)で、兄弟三人とも儒学者として江戸時代中期から後期にかけて活躍し、志村三珠樹(さんしゅじゅ)と称された。字(あざな)は仲敬(ちゅうけい)。別号に東嶼(とうしょ)、東洲。 医師で儒学者のに学び、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関である昌平黌でまで務め、寛政元年(1789年)仙台藩の大番士、次いでに任ぜられる。仙台藩の儒学者で、刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』の著者、芦東山とも交流があった。 享和2年(1802年)に51歳(数え年)で死去。 時恭(東嶼)の子で、儒学者の(別号:文翠)には子がいなかった。そこで、時敏(文翠)は、弘強(蒙庵)の長男で、形式的には實因(五城)の孫にあたる利安の子の(ときよし)を養子に迎え入れている。このため、志村三兄弟の血筋は、實因(五城)系と時恭(東嶼)系が存在するが、いずれも末弟の弘強(蒙庵)の血筋である。 来孫には、東京工業大学名誉教授の志村正道がいる。 (ja)
  • 志村 時恭(しむら ときもり、宝暦2年6月9日(1752年7月19日) - 享和2年5月24日(1802年6月23日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した仙台藩の儒学者。 陸奥国江刺郡(現岩手県)羽黒堂村中山の出身。兄は志村實因(五城)、弟は志村弘強(蒙庵)で、兄弟三人とも儒学者として江戸時代中期から後期にかけて活躍し、志村三珠樹(さんしゅじゅ)と称された。字(あざな)は仲敬(ちゅうけい)。別号に東嶼(とうしょ)、東洲。 医師で儒学者のに学び、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関である昌平黌でまで務め、寛政元年(1789年)仙台藩の大番士、次いでに任ぜられる。仙台藩の儒学者で、刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』の著者、芦東山とも交流があった。 享和2年(1802年)に51歳(数え年)で死去。 時恭(東嶼)の子で、儒学者の(別号:文翠)には子がいなかった。そこで、時敏(文翠)は、弘強(蒙庵)の長男で、形式的には實因(五城)の孫にあたる利安の子の(ときよし)を養子に迎え入れている。このため、志村三兄弟の血筋は、實因(五城)系と時恭(東嶼)系が存在するが、いずれも末弟の弘強(蒙庵)の血筋である。 来孫には、東京工業大学名誉教授の志村正道がいる。 (ja)
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  • 志村 時恭(しむら ときもり、宝暦2年6月9日(1752年7月19日) - 享和2年5月24日(1802年6月23日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した仙台藩の儒学者。 陸奥国江刺郡(現岩手県)羽黒堂村中山の出身。兄は志村實因(五城)、弟は志村弘強(蒙庵)で、兄弟三人とも儒学者として江戸時代中期から後期にかけて活躍し、志村三珠樹(さんしゅじゅ)と称された。字(あざな)は仲敬(ちゅうけい)。別号に東嶼(とうしょ)、東洲。 医師で儒学者のに学び、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関である昌平黌でまで務め、寛政元年(1789年)仙台藩の大番士、次いでに任ぜられる。仙台藩の儒学者で、刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』の著者、芦東山とも交流があった。 享和2年(1802年)に51歳(数え年)で死去。 時恭(東嶼)の子で、儒学者の(別号:文翠)には子がいなかった。そこで、時敏(文翠)は、弘強(蒙庵)の長男で、形式的には實因(五城)の孫にあたる利安の子の(ときよし)を養子に迎え入れている。このため、志村三兄弟の血筋は、實因(五城)系と時恭(東嶼)系が存在するが、いずれも末弟の弘強(蒙庵)の血筋である。 来孫には、東京工業大学名誉教授の志村正道がいる。 (ja)
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