張赫宙(ちょう かくちゅう/チャン ヒョクチュ、1905年10月13日 - 1997年)または野口赫宙(のぐち かくちゅう)は、植民地期の代表的な朝鮮人日本語作家である。金史良とともに「在日朝鮮人文学」の嚆矢ともされる。 日本文壇デビュー作は「餓鬼道」(『改造』1932年4月、懸賞小説入選作)。初期作品は同時代のプロレタリア文学の影響を受け、朝鮮農民の貧困と悲惨さを訴えると同時に、植民地期朝鮮人の人間群像を自然主義リアリズムの文体で巧みに描き出している。それらを集めた処女作品集『権といふ男』(1934年)『仁王洞時代』(1935年)は張赫宙の代表作である。張赫宙は朝鮮農民の惨状とそれに派生する満州移民関連の作品を多く書いたが、他方で自己の出自や来歴にも拘泥しており、第2創作集の表題作「仁王洞時代」(1935年)や「愛怨の園」(1937年)、『愛憎の記録』(1940年)の収録作、さらに戦後においては『遍歴の調書』(1954年)『嵐の詩』(1975年)を刊行するなど、繰り返し自己の出自を語っている。

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  • 張赫宙(ちょう かくちゅう/チャン ヒョクチュ、1905年10月13日 - 1997年)または野口赫宙(のぐち かくちゅう)は、植民地期の代表的な朝鮮人日本語作家である。金史良とともに「在日朝鮮人文学」の嚆矢ともされる。 日本文壇デビュー作は「餓鬼道」(『改造』1932年4月、懸賞小説入選作)。初期作品は同時代のプロレタリア文学の影響を受け、朝鮮農民の貧困と悲惨さを訴えると同時に、植民地期朝鮮人の人間群像を自然主義リアリズムの文体で巧みに描き出している。それらを集めた処女作品集『権といふ男』(1934年)『仁王洞時代』(1935年)は張赫宙の代表作である。張赫宙は朝鮮農民の惨状とそれに派生する満州移民関連の作品を多く書いたが、他方で自己の出自や来歴にも拘泥しており、第2創作集の表題作「仁王洞時代」(1935年)や「愛怨の園」(1937年)、『愛憎の記録』(1940年)の収録作、さらに戦後においては『遍歴の調書』(1954年)『嵐の詩』(1975年)を刊行するなど、繰り返し自己の出自を語っている。 張赫宙はいわゆる親日文学者としてよく取り上げられているが、張赫宙の文学は日本の私小説、とくに日本の自然主義文学の傾向が強い。朝鮮のいわゆる身世打令に近い性質がある。そのため、張赫宙の文学は強靭な思想とイデオロギーで一貫しているというより時局と時勢に順応していく傾向を持つ。それはプロレタリア文学風の初期作品群においても、満州事変以降に書かれる『開拓地帯』『田園の雷鳴』『緑の北国』『幸福の民』『開墾』などの膨大な満州開拓農民関連の作品や、加藤清正から李舜臣で終わる予定の『七年の嵐』『和戦何れも辞せず』などの歴史小説においても、さらに時局的な色彩が濃厚な『岩本志願兵』(1944年)においても同様に見られる。表層的な色彩は違うが、いずれも朝鮮農民の惨状や民衆の苦難を文学的基盤としながら、そのうえ、間歇的に自己の出自と来歴への表現欲望が噴出する傾向がある。 終戦後、戦前的な題材を失った張赫宙は窮して児童文学、少女小説、朝鮮戦争関連のルポ、社会派ミステリー、日韓文化論などを書いていくが、以前の名声を取り戻すことは出来なかった。朝鮮農民の惨状から方向転換し、日本社会の底辺と暗部を描いていくが、戦後社会と戦後文学の変化に取り残され、再び注目されることはなかった。朝鮮戦争の悲惨さを描いた『嗚呼朝鮮』(1952年)を最後に、張は日本に帰化し、筆名も以前の「張赫宙」から「野口赫宙」に変更する。以降は「野口赫宙」で一貫する。こうした文学的な経歴と私的条件から、張赫宙は「」の代表的存在として評価されることが多い。最晩年には日本語とも朝鮮語とも離れ、17世紀の日本のキリシタン迫害と殉教を描いた英文長編小説『Forlorn Journey』(1991年)をインド・ニューデリーで出版している。最後の創作である。ちなみにforlorn journeyとは日本語で「見捨てられた旅路」「孤独な旅」に訳される。 (ja)
  • 張赫宙(ちょう かくちゅう/チャン ヒョクチュ、1905年10月13日 - 1997年)または野口赫宙(のぐち かくちゅう)は、植民地期の代表的な朝鮮人日本語作家である。金史良とともに「在日朝鮮人文学」の嚆矢ともされる。 日本文壇デビュー作は「餓鬼道」(『改造』1932年4月、懸賞小説入選作)。初期作品は同時代のプロレタリア文学の影響を受け、朝鮮農民の貧困と悲惨さを訴えると同時に、植民地期朝鮮人の人間群像を自然主義リアリズムの文体で巧みに描き出している。それらを集めた処女作品集『権といふ男』(1934年)『仁王洞時代』(1935年)は張赫宙の代表作である。張赫宙は朝鮮農民の惨状とそれに派生する満州移民関連の作品を多く書いたが、他方で自己の出自や来歴にも拘泥しており、第2創作集の表題作「仁王洞時代」(1935年)や「愛怨の園」(1937年)、『愛憎の記録』(1940年)の収録作、さらに戦後においては『遍歴の調書』(1954年)『嵐の詩』(1975年)を刊行するなど、繰り返し自己の出自を語っている。 張赫宙はいわゆる親日文学者としてよく取り上げられているが、張赫宙の文学は日本の私小説、とくに日本の自然主義文学の傾向が強い。朝鮮のいわゆる身世打令に近い性質がある。そのため、張赫宙の文学は強靭な思想とイデオロギーで一貫しているというより時局と時勢に順応していく傾向を持つ。それはプロレタリア文学風の初期作品群においても、満州事変以降に書かれる『開拓地帯』『田園の雷鳴』『緑の北国』『幸福の民』『開墾』などの膨大な満州開拓農民関連の作品や、加藤清正から李舜臣で終わる予定の『七年の嵐』『和戦何れも辞せず』などの歴史小説においても、さらに時局的な色彩が濃厚な『岩本志願兵』(1944年)においても同様に見られる。表層的な色彩は違うが、いずれも朝鮮農民の惨状や民衆の苦難を文学的基盤としながら、そのうえ、間歇的に自己の出自と来歴への表現欲望が噴出する傾向がある。 終戦後、戦前的な題材を失った張赫宙は窮して児童文学、少女小説、朝鮮戦争関連のルポ、社会派ミステリー、日韓文化論などを書いていくが、以前の名声を取り戻すことは出来なかった。朝鮮農民の惨状から方向転換し、日本社会の底辺と暗部を描いていくが、戦後社会と戦後文学の変化に取り残され、再び注目されることはなかった。朝鮮戦争の悲惨さを描いた『嗚呼朝鮮』(1952年)を最後に、張は日本に帰化し、筆名も以前の「張赫宙」から「野口赫宙」に変更する。以降は「野口赫宙」で一貫する。こうした文学的な経歴と私的条件から、張赫宙は「」の代表的存在として評価されることが多い。最晩年には日本語とも朝鮮語とも離れ、17世紀の日本のキリシタン迫害と殉教を描いた英文長編小説『Forlorn Journey』(1991年)をインド・ニューデリーで出版している。最後の創作である。ちなみにforlorn journeyとは日本語で「見捨てられた旅路」「孤独な旅」に訳される。 (ja)
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  • 張赫宙(ちょう かくちゅう/チャン ヒョクチュ、1905年10月13日 - 1997年)または野口赫宙(のぐち かくちゅう)は、植民地期の代表的な朝鮮人日本語作家である。金史良とともに「在日朝鮮人文学」の嚆矢ともされる。 日本文壇デビュー作は「餓鬼道」(『改造』1932年4月、懸賞小説入選作)。初期作品は同時代のプロレタリア文学の影響を受け、朝鮮農民の貧困と悲惨さを訴えると同時に、植民地期朝鮮人の人間群像を自然主義リアリズムの文体で巧みに描き出している。それらを集めた処女作品集『権といふ男』(1934年)『仁王洞時代』(1935年)は張赫宙の代表作である。張赫宙は朝鮮農民の惨状とそれに派生する満州移民関連の作品を多く書いたが、他方で自己の出自や来歴にも拘泥しており、第2創作集の表題作「仁王洞時代」(1935年)や「愛怨の園」(1937年)、『愛憎の記録』(1940年)の収録作、さらに戦後においては『遍歴の調書』(1954年)『嵐の詩』(1975年)を刊行するなど、繰り返し自己の出自を語っている。 (ja)
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