尚 懿(しょう い、生年不詳 - 万暦12年3月23日(1584年5月3日))は、琉球王国第二尚氏王統の人。童名を思太郎金。祖父の尚維衡・浦添王子朝満を元祖とする向氏小禄御殿の三世。尚弘業・浦添王子朝喬の長男。王子位であり与那城王子朝賢を称するが、長男の尚寧が琉球王国第二尚氏王統の第7代国王となったため、王の父たるをもって康熙38年2月7日(1699年3月8日)に王号を追贈された。 生年不詳であるが、弟の向秉義・豊見城按司朝重の生年が嘉靖25年(1546年)であるため、それ以前の誕生であることはわかる。 祖父の尚維衡は第3代国王尚真王の世子であったが、廃嫡され浦添の地に隠遁していた。その子(つまり尚懿の父)も同じように隠遁生活を送ったのか、史書にはなんらその足跡を残していない。尚懿自身も祖父や父と同じだったのか、史書に登場することは皆無である。 墓所は浦添市仲間の浦添ようどれ。

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  • 尚 懿(しょう い、生年不詳 - 万暦12年3月23日(1584年5月3日))は、琉球王国第二尚氏王統の人。童名を思太郎金。祖父の尚維衡・浦添王子朝満を元祖とする向氏小禄御殿の三世。尚弘業・浦添王子朝喬の長男。王子位であり与那城王子朝賢を称するが、長男の尚寧が琉球王国第二尚氏王統の第7代国王となったため、王の父たるをもって康熙38年2月7日(1699年3月8日)に王号を追贈された。 生年不詳であるが、弟の向秉義・豊見城按司朝重の生年が嘉靖25年(1546年)であるため、それ以前の誕生であることはわかる。 祖父の尚維衡は第3代国王尚真王の世子であったが、廃嫡され浦添の地に隠遁していた。その子(つまり尚懿の父)も同じように隠遁生活を送ったのか、史書にはなんらその足跡を残していない。尚懿自身も祖父や父と同じだったのか、史書に登場することは皆無である。 墓所は浦添市仲間の浦添ようどれ。 (ja)
  • 尚 懿(しょう い、生年不詳 - 万暦12年3月23日(1584年5月3日))は、琉球王国第二尚氏王統の人。童名を思太郎金。祖父の尚維衡・浦添王子朝満を元祖とする向氏小禄御殿の三世。尚弘業・浦添王子朝喬の長男。王子位であり与那城王子朝賢を称するが、長男の尚寧が琉球王国第二尚氏王統の第7代国王となったため、王の父たるをもって康熙38年2月7日(1699年3月8日)に王号を追贈された。 生年不詳であるが、弟の向秉義・豊見城按司朝重の生年が嘉靖25年(1546年)であるため、それ以前の誕生であることはわかる。 祖父の尚維衡は第3代国王尚真王の世子であったが、廃嫡され浦添の地に隠遁していた。その子(つまり尚懿の父)も同じように隠遁生活を送ったのか、史書にはなんらその足跡を残していない。尚懿自身も祖父や父と同じだったのか、史書に登場することは皆無である。 墓所は浦添市仲間の浦添ようどれ。 (ja)
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